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11/11 引退 10/10 やり直したいこと 09/09 85円の価値 08/08 部活動 07/07 足に関する考察 06/06 旬を食す 05/05 タイパ社会 04/04 落ち着ける場所 03/03 アポロニウスの円 02/02 終活 01/01 想定外のときの処世術
24/11/11
引退
プロスポーツの選手やあるいはオリンピックに出場できるくらいの選手が,年齢と共に体がついていかなくなり,あるいは技術的・体力的にできないことが多くなり引退を表明することがあります。年齢による引退は競技の種類によってさまざまです。プロ野球やJリーグなどは30代が多いようですが,プロ野球の山本昌広投手は50歳まで,サッカーの三浦知良選手に至っては57歳の今も現役でいることは驚きです。JRA現役最年長ジョッキーの柴田善臣騎手も三浦選手と同い年です。同じ馬繋がりでは馬術の法華津寛選手が71歳でロンドンオリンピックに出場しています。法華津選手はオリンピックに三度出場し,初めての出場は東京オリンピックでした。2021年ではなく1964年の方だというのだから驚きです。一方で現役引退がきわめて早い競技もあります。体操やフィギュアスケート,ボクシングなど多くの選手が20代で引退しています。中には10代で引退などと聞くと,その後の人生はどうなるのかしら?とまったく関係もないのに心配になります。
ゴルフや競馬の騎手あるいは乗馬などは現役生活が長いようです。スポーツではありませんが,将棋や囲碁の棋士も息が長いです。戦後の将棋界を席巻した大山康晴名人は亡くなる69歳まで現役のA級順位戦で棋譜を残しました。囲碁の世界では本因坊のタイトルを10回連覇し,去年通算1600勝を達成した趙治勲本因坊は68歳になる今も現役です。スポーツと異なり,才能と頭脳で戦う『競技』の引退は,他のスポーツよりもはるかに遅く,将棋も囲碁も60歳以上の現役が多数存在します。年齢と共に若い棋士には適わなくなるものの,それでもプロとして戦い続けられることは並大抵では無いと思います。
数学の問題を解くことに関して考えました。数学の問題を解く能力は年齢と共にどう変遷していくのでしょうか。一般的には高校生か大学受験をした人ならば,その頃が最も『数学力』があったと思われます。では職業としての数学はどうでしょうか。ここでは大学で数学を学び,その後継続して学ぶ人ではなく,数学を職業として教える,いわゆる先生の数学力について考えます。学校の先生は教えることに専念できない立場の人が多いでしょう。教科の研究にどれくらいの時間が充てられるか,それに依ります。高校時代の数学の先生に,どんな入試問題を質問に行ってもすぐに答えてしまう先生が居ました。後に聞いた話では,その先生は職員会議の時でも数学の問題を解くほどで,職員の間では『問題児』であったようです。けれども批判的な言葉で言われていなかったようです。学校の先生としては希な方かもしれません。塾や予備校の先生は,教えることを生業としているので,数学の問題に対する意識は高いでしょう。どの大学でどんな入試問題が出題されたか,おおよそ把握していることでしょう。あるいは常に問題を解く時間は取れるのだから,数学力も下がることはそれほどないでしょう。年齢と共に解く能力が下がるでしょうか?将棋のようにプロ同士と戦うわけではないので,一過性の受験生に劣ることはないでしょう。もちろん,研究することを怠れば数学力が下がるのは自明です。日々数学の問題に向き合える環境にある,数学が好きな人間には最適な職業かもしれません。数学の問題に向き合う時間があるのならば,現役引退とは無縁なのかもしれません。
24/10/10
やり直したいこと
先日,新聞社のサイトに60歳以上のシニア世代に「後悔」や「やり直したい」ことがらをまとめた記事がありました。内容を読む前に,はて何があるのだろう?と考えてみました。若い頃に失敗したことや,いまの伴侶に関することだろうか。そんなよこしまな考えが浮かびました。ところがそんな意見は見当たりませんでした。最も多かったのは「もっと学べばよかった」でした。なるほどそう来たか。歳を取ってからでも学びたいという意欲が沸くようで,学びに年齢は関係ないと思いました。新たな知識を得たり,好奇心に駆られるのは誰しもあるのでしょう。歳を重ねたからこそやり直したい,学び直したいという好奇心が蘇るのかもしれません。あるいは時間的に余裕が持て,その時間で何ができるのだろうかと考える余裕が持てるのかもしれません。
翻って若い世代,中学生や高校生はどうでしょう?学校がありテストで試されるので,否が応でも勉強はするでしょう。中には積極的に学ぼうとする生徒が居るかもしれませんが,多くは試験があるから,良い結果が欲しいから,親に叱られたくないから,あるいは親に褒められたいから勉強をしている中学生・高校生が大勢を占めているようです。学びは本来,自分の興味を引くものを追求したい,なぜこんなことが起こるのだろう?そんな知的好奇心が学びへと導いてくれるのです。学校に通っている頃には気づけないのかもしれません。
中学生や高校生にとっていま学んでいることがどれほど貴重な時間かを説いても,それに頷く生徒はほぼいないでしょう。「いまの勉強が将来何の役に立つの?」と反論する生徒は珍しくありません。確かにいま学んでいることが自らの生活で,直接的に役に立つことは無いでしょう。けれども意識的に学ぶ気持ちをそこに持っていければ,それが自分自身を豊かにしてくれることを悟るにはまだ過ごした時間が短いのかもしれません。そう,時間なのです。「やり直したいこと」の中には『時間』に関することが目立ちました。「もっと家族との時間を大切にすればよかった」をはじめとし,友人との時間やひとりの時間を大切にしたいと思っている人が多いようです。人は限られた時間しか有しません。その中で大切にするべきものは人それぞれでしょう。さて,あなたは……。
24/09/09
85円の価値
郵便料金が来月から値上げされます。はがきは63円から85円,定形の封筒は25グラムまで84円と50グラムまで94円が統一され110円になります。値上げ率からするとはがきが33%,封筒の25グラムまでは31%なので,他のさまざまなものの値段や料金と比べるとかなりの値上げ幅となります。これがもし電車やバスの運賃や,医療費あるいは食品など生活に関わるものならばもっと抵抗があることでしょう。はがきや封書で連絡するのは,多くは企業・会社などなので,個人的に影響が出にくい性質にあることが批判の的になりにくいのかもしれません。ネット環境が整い,連絡の手段は今やLINEが主になった現在,電話はおろか,はがきや手紙で個人的なやりとりをする人は珍しいのではないでしょうか。仮にそうだとしても,郵便でそれほど頻繁に個人的な連絡をする機会は多くはないでしょう。
けれども手紙の効力は大きいと思います。大切な人や親しい友達,あるいはお世話になった人からの手紙はどれだけ心に響くでしょうか。いわゆる書簡にしたためられた文章は,書き手が送る相手のことだけを想い書き綴るのだから,その想いは唯一無二のものとなります。メールやLINEも送る相手のことを考えて打ち込むかもしれませんが,手紙とはやはり違いがあります。それは手紙は送り主が受け取る相手に対して一方通行から始まるところにあります。受け取る側が返事を記すのか,貰った手紙で一旦完結するのかはそれぞれの成り行きによって決まるでしょう。また,手紙と他の通信との決定的な違いは,ある一定の時間がそこに存在することです。書き終えて相手に渡るまでの時間,受け手の読み返す時間。二人だけに共有できる時間が存在するのです。
はがきはわずか100円を切る金額で,国内至る所に届きます。値上がりしたあとでも僅か85円です。85円を渡され大事な手紙を遠くまで届けてくれる人が居るのです。そう考えるとはがきの切手代は安く感じるのです。あれだけ薄くて小さな紙片一枚を85円で大事に配達してくれる。そんなサービスは他に見当たりません。計算上での値上げは机上の空論としておきましょう。
24/08/08
部活動
中学校や高校にはさまざまな部活動があります。体育会系では野球部やサッカー部の球技や,柔道部,剣道部などの武道系。弓道部やアーチェリー部がある学校も聞きます。女子にはダンス部に入っている生徒も多いようです。その時代で人気が出る部活の変遷はあるようです。山岳部と称しロッククライミングをしているケースもあります。まだあまり聞きませんが,スケートボードの部活動がある学校も出てきそうです。その要因はやはりオリンピックの影響が大きいでしょう。パリで行われているオリンピックでの日本選手のフェンシングの躍進に興味を示す中学生・高校生は少なくないでしょう。文化系の部活動も多様です。美術部や吹奏楽部などの芸術系,理科部,生物部あるいは天文部などの理科系,新聞部,写真部,放送部の報道系など。上げればキリがないほどです。
部活動の忙しさはさまざまで,ほぼ毎日活動がある部活もあれば,活動らしきものがあるの?という部活動もあります。野球部やラグビー部などチームで戦う場合,個人的な理由で休みにくいことをよく耳にします。怪我をしたら他の選手のサポートに回るなど,献身的な生徒も居ます。吹奏楽部やダンス部は自分たちの演奏会や大会とは別に,運動系部活の試合の応援があり,他の部活とは比較にならないほど忙しいという生徒も居ます。日曜日の朝早くに駅前に集合している,明らかにこれから試合や大会に向かう高校生の姿を見かけます。
忙しい部活に文句を言う生徒が居ます。勉強の時間が取られたり,友達と遊ぶ時間がないあるいは自由に使える時間が少ないなど不満を言う生徒が居ます。そんな言葉を聞いた同級生が言います。だったらやめれば?と。部活動は決して強制ではなく,自分の意思で入ったのだから嫌ならやめればいいというのです。もっともな話です。けれどもほとんどの生徒は文句を言いつつも続けます。大変な中にも結局は得るものが多いのでしょう。あるいは失うことの方が多いのかも知れません。学校生活に多くの時間を費やすことができ,親の保護のもと生活の心配をせず自由に時間を使えるのは十代の特権でしょう。労働に換算したら如何ほどになるのだろうと思う部活動があります。けれども彼ら彼女らはそんなことはまったく考えず,ひたすら練習に励み試合に臨みます。時給0円の青春はその年齢だからこそできるのでしょう。
24/07/07
足に関する考察
体の一部を用いたさまざまな表現があります。癇癪を起こしてしまった子供に母親が「手を焼き」,ふだんまともに勉強していない友達が次は学年トップを狙うなどと言うのは「片腹が痛い」思いをし,どんなに必要性を説いても前例がないからと一蹴してしまう上司は「頭が固い」と感じ,さまざまな投資に失敗することなく勝ち続ける「生き馬の目を抜く」人が知り合いに居る。など,枚挙にいとまがありません。それほど体の各部位にはさまざまな要素があるということでしょう。
足に関する表現も多数あります。「馬脚をあらわす」は正体がばれたり,化けの皮が剥がれたときに使われます。当人にとってはまずい状況でもあり,それを暴いた人にとっては,やはりそうだったのか,という思いが募るでしょう。「馬脚をあらわす」の語源は芝居で馬の役をしている役者がうっかり姿を現すことからきていることはよく知られています。「現す・露わす・表す」など,さまざまな漢字が用いられ,それは漢字特有の表現で意味合いが異なってくるのは興味深いものです。「足を洗う」は悪いこと・好ましくない所業をやめるときに使われます。「堅気になる」という言い換えもあるようで,悪事から手を引くことになります。「手を引く」も体の一部を使った表現で,「足を洗う」の始まりが「手を染める」ということがあるので,その対比が足と手という人間の四肢で支える部位であるのが面白いです。
女性や陸上選手の長くきれいな足を褒める表現に「カモシカのような足」があります。この言葉はネガティブな比喩の多い足の中にあって,建設的な表現に感じます。けれどもここでふと思いました。カモシカのような足の持ち主のその足はどんな足を想像しますか?スラッとしたきれいな足でしょうか。それとも健康的な筋肉質な足でしょうか。少なくともボテッとした足や,毛むくじゃらな足を想像する人は居ないでしょう。では実際のカモシカの足ってどんな足でしょうか?興味のあるようでしたら検索して画像をご覧ください。驚くことでしょう。この表現は誤解から生じたことはよく知られたことで,本当はカモシカではなくガゼル(羚羊)の日本語訳がカモシカになったとのことです。足にまつわる表現はここでもマイナスな要素があったことは何とも言いがたいのです。それでも探せばポジティブな表現もあるでしょう。そんな言葉を探し当てるのも楽しいかも知れません。
24/06/06
旬を食す
四季豊かな日本では,それぞれの季節での旬の食材があります。海に囲まれたわが国では,特に魚の旬がどの時期でもみられます。5月になれば初がつおがスーパーの魚売り場に並びます。刻んだネギを載せて,購買意欲をかき立てるものもあります。夏の盛りのウナギは日本人ならば誰もが知っている旬でしょう。6月の鮎の解禁では天然物の香りが楽しめ,秋のサンマは脂が乗っていると,焼いている音さえも食の一部になります。春のサワラ,秋鮭そして冬の寒ブリ。どれもその時期に食卓並べば笑顔がこぼれることでしょう。
野菜にも旬があります。春の旬といえばタケノコでしょう。八百屋でタケノコが並ぶと,今年も春がやって来たのだと感じます。タケノコを選ぶときは,根本の方が太く,持ったときにしっかりと重みを感じるものを手にします。他の野菜と比べると,圧倒的に大きく存在感があります。大きめの袋に入れ持ち帰ると次は準備です。小さいタケノコも売っていますが,大きいものとなるとたいていの鍋に入り切りません。ふだん使わない寸胴を台所のシンクの下から取り出しますが,それでも収まらないことがあります。その時は中華包丁でゆっくり真ん中あたりで切ります。そして一時間かけて茹でます。茹でた後は自然に冷めるのを待ち皮を剥きます。何重にもなった皮の中からやがて穂先の姫皮が現れます。剥いた皮の中には,その下の部分を手で引っ張ると簡単に引きちぎることができる箇所があり,はじめにその部分を食べると少し苦く,けれども何とも言えない幸福感を抱きます。春の旬を頂いているのだと。
そこから少し季節が進むと,今度は透明なビニール袋に無造作に入れられたラッキョウが店頭に並びます。1kg980円などの値札が付いています。それを見るとすぐに買い物カゴの中に入れます。タケノコ同様,あるいはそれ以上に重量感があります。ラッキョウの仕込みの手順は大変です。水洗いをすると,根と先端を切り落とします。ここまでで15分程度を要します。次に薄皮を剥きます。ここが一番時間が掛かります。薄皮は剥がしにくく,無理に剥がそうとすると実を削ってしまいます。指先で皮を剥ぐときに,爪の間にラッキョウの実が突き刺さることもあります。時には爪の中を切ってしまい流血することもあります。そうなってしまうと痛みがあり作業を継続するのが困難なこともありました。無事薄皮を剥がし終える頃には腰が痛くなります。その後,水洗いを何度も繰り返し準備は終わります。最後に大きめの容器に水を張り塩を手でつかみ取り入れます。手でかき混ぜながら塩加減を見ます。計量することなく目分量で決めます。手で塩水をすくい加減を決めるのです。
ラッキョウは一週間を過ぎると食べられるようになりますが,個人的な好みとしてはもう少し置いた方が美味しくなります。さて,タケノコとラッキョウはその旬が少しずれているため同時に楽しむことができません。カツオと寒ブリが一緒に食べられないように。ところが最近,通りがかかりの八百屋にタケノコが並べていたのを発見しました。一度通り過ぎてから戻りました。そのタケノコはやたらと長く,春に見るものと異なるのは一目瞭然。一見すると成長しすぎたタケノコといった感じです。ちょうど品出しをしていた女性は,そのタケノコの仕入れの人でタケノコを並べながら説明してくれました。真竹(マダケ)と呼ばれるもので梅雨前が旬とのこと。迷わず二本を手に取り,大きめの袋に入れて貰いました。店を後にしてからの足取りは軽く,ラッキョウと一緒に食する時間を想像しました。
24/05/05
タイパ社会
仕事が忙しく一日を過ごしたりすると「今日は一日が長い」などと言う人が居ます。一日中仕事に追われ,息つく暇もないほど時間を過ごすとそんな風に感じるのかも知れません。一日が24時間であるのは当たり前のことで,誰にも時間は平等にあるはずです。逆に何もすることが無い状況だとその時間を過ごすのが長く感じる人も居るでしょう。忙しく過ごす方が時間が短く感じるのは納得が行く人が多いことでしょう。時間の使い方が上手な人下手な人。それはどこに原因があるのでしょうか?
物事に対して費やした時間に対する満足度をあわらわすものとして,タイムパフォーマンスという言葉があります。時間を費やしたことに対して,結果がどう現れるか。中学生や高校生にとっては勉強した時間と試験結果という分かりやすい量りがあります。当然勉強した時間が長い方がよい結果が得られがちでしょうが,必ずしもそうでないこともあります。試験直前に覚えたことが出た,と喜ぶ生徒がいる一方,一生懸命覚えたことやたくさん解いた問題が出なかったことなど,誰しも経験があることでしょう。大人になり,社会に出て仕事をしていると,その成果が学生の頃より見えにくくなるのも実際のことでしょう。仕事を成し遂げるために費やした時間がどう評価されるか?明確な量りが無いことのが当たり前なのが社会生活の業なのでしょう。
エスカレーターを歩く人,立ち止まる人。車線変更を頻繁に繰り返し,少しでも先へ進もうとするドライバー。ずっと同じ車線をマイペースで走るドライバー。さまざまです。結果的にどれほどの時間を短縮できるのでしょう。そして短縮できた時間を上手に活かせるのでしょうか。もっともこうした行為は性格によるものかも知れません。急いでいる人が,ふだんの生活の中で時間を有効に使えているのか。果たしていかがなものでしょう。一冊の本を10分で『読む』ことができるサイトがあります。自宅で見る映画を倍速にして見る人も居るそうです。娯楽という観点からすると疑問を感じますが,本を読まないよりはその内容を知る方が読まないよりはいいのかもしれません。映画の感動も見なければ新しい出会いは無いでしょう。けれども本当にそこまで時間が足りないのでしょうか?一日は24時間であることは紛れもない事実です。けれどもその一日はその日だけのものではなく,そこに至るまでの日々があるからこそ今日があるのです。そして今日の日はまた明日へと続きます。効率化を考えることも必要でしょうが,すべてにそれがあてはまるのか,自身の時間の使い方に一石を投じることも必要です。自分にとっての贅沢な時間の使い方を考えてみてください。その上で時短を望むことの本当の意義は何なのかを知るべきではないでしょうか。
24/04/04
落ち着ける場所
学校が終わってから,あるいは仕事を終えて自宅に帰ってからホッとする瞬間はどんなときでしょうか?制服から部屋着に着替えたり,ネクタイを緩めスーツを脱いだときでしょうか。あるいはお茶やコーヒーを淹れ,ソファに腰掛けたときでしょうか。個人的には靴下を脱いだ瞬間,今日の仕事から解放されたと感じます。人それぞれにポイントがあることでしょう。やはり自分の家,自分の部屋は何よりも落ち着く場所になるようです。言い古された表現ですが,旅行から帰ったとき「やっぱり家が一番」というセリフはおそらく正直なことばだと思います。
ところが落ち着いて過ごせるはずの家を失ってしまう出来事が続いています。それが災害であったり,争い事に依るものであったりします。地震や台風による災害で住まいを失ったとき,その地に残り復活を図る人も居れば,新たな場所で新たな生活を始める人も居るでしょう。一世代だけで見れば困難な出来事も,幾世代にもおよんで復興する場所もあります。戦争による失われた人やものはいかがなものでしょう。個人では抗うことのできない国と国,国と地域の愚かな争いは,間違いなく人々の安住の地を奪う出来事です。この愚かな行いの繰り返しは,歴史を鑑みると悲しいことかな,途絶えることはないのかもしれません。
小さな世界でも落ち着けるはずの場所が奪われることがあります。身勝手な親の争いによって,本来は安心して過ごせるはずの家が,帰りたくない場所になり得るのです。力のないこどもができることは限られます。我慢して家に留まるか,家を出て他所に頼ることでしょう。その先に何が待っているのか?想像してみてください。そこまでことが重たくなくても,自宅が居心地が良くないこどもも居ます。家族が一緒に住む家は,こどもにとっての一番最初の『社会』で,こどもの性格を形成していきます。こどもは親の鏡という言葉があります。どれくらいの距離を置くか。その距離感が大切で,それを測るもの差しはありません。大事なことは寄り添い思いやることです。事象の大小を問わず,あるいはこどものことだからと軽んじず,想像力を働かせることです。
24/03/03
アポロニウスの円
数学は大きく分けて解析学・代数学・幾何学の3つの分野に分けられます。高校数学では二次関数や三角関数あるいは指数対数関数を中心に学びます。微分積分もこれらの関数の変化や大小関係,面積などを調べます。ベクトルや複素数平面は代数学に分類され,2年前から始まった新課程では,原則理系に進む生徒のみの単元となりました。以前学んでいた行列は大学進学後,主に理工系の学生だけが学ぶようになりました。幾何学は高校一年で少しだけ学びます。量的には中学数学の方が多いのです。ただ,数学が苦手な生徒にとっては角度を求める問題以外は証明が多い印象しか残っていないかも知れません。けれども「数学は苦手だけれども幾何学は好き」と言う人は昔から居ました。
幾何学の中には作図に関する問題があります。「2点を結ぶ線分の垂直二等分線」や「角の二等分線」は定番でしょう。作図は直線を引く定規とコンパス,この2つだけを使って描くところがシンプルで潔いのです。落語家が手ぬぐいと扇子ですべてのものを表現する世界に似ているような気がします。作図には不可能もあります。例えば「角の三等分線」や「円と同じ面積をもつ正方形」の作図などです。これらが不可能であることの証明が,幾何学ではなく数量的な方法で成されているのはちょっとしゃくな気がします。
さて,次のような円の作図問題があります。「2点A,Bから2:1に内分する点Pと外分する点Qを取り,その2点を直径の両端とする円を作図せよ」。この円は『アポロニウスの円』と呼ばれ,古代ギリシャの数学者アポロニウスが考えたとされています。高校数学の「軌跡」の単元に「2点からの距離の比が2:1である点の軌跡を求めよ」という問題があります。生徒は数量的にこの問題を解きます。もちろん正しい解き方なのです。けれどもただ単に計算だけで済ませてしまうところが残念でなりません。アポロニウスの円を用いたほうがよりシンプルで,何を意味しているのかが分かりやすいのです。
アポロニウスの円を用いると次のことが観測できます。「高さ333メートルの東京タワーと高さ634メートルのスカイツリーから333:643の比に内分する点と外分する点を直径とするの上では,二つの塔の高さは同じに見える」。さてにわかに信じられるでしょうか?都内に出かけて確認するまでもなく,慎重150cmと180cmの友達を広場に立って貰い,150cmの人から10m,180cmの人からは12m離れた場所から二人を見てください。2人は同じ身長に見えることでしょう。このことはアポロニウスの円の性質のほんのひとつです。ものごとにはいくつもの側面があるように,さまざまな現象や事実の一面だけを見ていると,視野は狭くなります。ものの見方や考え方には柔軟でありたいと思います。
24/02/02
終活
教室の棚にあった古い教材を整理しました。その教材を作成した先生はかなり前に他界した数学の先生で,教材を作ることに相当量の力を入れていました。時代はまだ手書き教材が主流で,さまざまな教科書や問題集,あるいは入試問題から題材を取っていたようです。手書き特有の温かみを持ち合わせ,重要な箇所には赤い線がサインペンや赤鉛筆で施されてありました。記憶では退職前にそうした教材を整理するのに二か月以上掛けていました。それだけ教材に愛情を抱き,生徒が理解するための工夫をしていたのが見て取れます。
20年以上も前の教材は,これから使うには難しい要素を含みます。教材が古くなったかというと,普遍的な問題はいつの時代でも使えます。けれども紙の媒体で残されたものを選り分け,それをコピーして教材にするにはあまりに手間がかかります。学年や単元ごとに整理しなければなりません。いざ使う時にどこにどの教材があるのかが探し出せなかったり,探すのに時間がかかるのでは大変です。それならば今ある問題集や,検索がかけられるデータベース化された問題作成ソフトを使った方が早いのです。
退職する前に時間を掛けて残した教材を活用できなかったことは,残された者の不徳とするところでしょう。終活としてまとめた問題が活かせなかったことを反省しながら昔の教材を束ねました。やがて世代は交代の時期を迎えます。それが時の流れなのだから。先輩の先生の教材のことを自らに置き換えたとき,どうしたら残せるのか。まだ少し先のことだけれども,残すべき準備をする時期はやがて来るでしょう。
24/01/01
想定外のときの処世術
想定外のことはさまざまな場面で起こります。旅先でのハプニングはそれ自体楽しむものだとも言われます。予定していたのに,訪れた店が休みだったり,曜日を間違えたがために施設に入れないなど。逆に予定していた店に入れなかったため,他の店に入ったら予想外に良かったなど。電車やバスの遅延で行けなかった目的地のことを旅先の同宿者に聞いて,なおさらそこへの思いが強くなることもあるでしょう。そしてその思いがいつか叶えられることもひとつの楽しみになるでしょう。それが実現できたときの感動は,すんなり行けた時よりも大きいかも知れません。
勉強や仕事でも想定外のことはあります。むしろ日常のことなのでその頻度は大きいでしょう。急な宿題や課題が出されたり,試験直前に範囲が広がることなど何度も経験しているでしょう。何度も経験すればやがてそれが想定外でなくなるのかも知れません。仕事でも取引先から無理な注文が出たり,抑えてあった会場がダメになったりなど。学校や仕事での想定外はあまり良いことがないように思います。
奇しくも年が明けたばかりの元日に,北陸地方で大きな地震が発生しました。正月にのんびり過ごそうとしていた人や,帰省して実家で過ごしていた人,正月の旅行を楽しんでいた人たちにとっては,大きな想定外のことだったでしょう。夕方以降のテレビ番組はすべての正月特番を中止して,地震の状況を報道し続けました。多くの人は3.11のことを思い出したでしょう。こうして報道を見続けることによって気持ちが沈む人もいます。遠くに住んでいて直接関係がないのならば,こうした報道から避難するのもひとつの方法です。ラジオのバラエティ番組では,こうしたときの番組のあり方についての難しさを語っていました。リスナーからはこうしたときこそ平時のようないつもの喋りがあると安心するという投稿がありました。自分の置かれた状況で関わったり,距離を置いて過ごすのも必要な処世術だと思います。