12/12 紙の辞書 電子辞書 11/11 嗜好品と収集 10/10 単位の話 09/09 転居 08/08 火の穂 ~ほのほ~ 07/07 メモ代わりの紙ナプキン 06/06 変身願望 05/05 身から出たサビ 04/04 大学と就職活動 03/03 同じ形の文字 02/02 上り坂・下り坂 01/01 手帳と日記
10/12/12
紙の辞書 電子辞書
テレビの通信販売や,雑誌の広告ではよく電子辞書が宣伝されています。単なる『字引』としてでなく,百科事典やビジネスマン向けの実用辞書,家庭医学の辞書や観光用の会話文が入ったものまで出ています。かなり大量の冊数に上る辞書が,軽量な機器の中に納められています。それが‘売り’の一つでもあるのでしょう。小説など読み物がデジタル化されて読めるような時代となり,次第にコンテンツも整いつつありますが,電子辞書に比べるといまひとつ普及が遅れている感があります。いまの中学生や高校生の多くは,知らないことばや新しい英単語は電子辞書で引くことが圧倒的に多いようです。
おそらく昔と比べると,紙媒体での辞書の売り上げはかなり落ちているのではないでしょうか。実際,電子辞書が出回る前までは毎年年末になると『現代用語の基礎知識』や『知恵蔵』など,一般の辞書とは存在を画した書物がかなりの数出版されていました。執筆者も多岐に渡り,その割に価格も抑えられていたのでお買い得感がありました。単に,読み物としても楽しめるものでした。ところが,電子辞書あるいはインターネットで手軽にことばを引いたり検索出来るようになってから,これらの類の本は瞬く間に売れなくなってしまいました。廃刊に追い込まれた本もありました。紙の辞書を引くことを億劫に感じ,その一方でキーボードを叩く手軽さを覚えていきました。もちろん,電子辞書の良い面もあります。類義語や対義語の比較がしやすかったり,ネイティブの発音がすぐに聴くことが出来ます。英語の勉強をしながらも他の辞書で科学的な知識も同時に知ることだって可能なのですから。好奇心旺盛に,使い方次第でいくらでも活かせるのです。
紙媒体の辞書の良さもあります。新しいことばや単語を調べると,同じページの中の他のことばが嫌でも目に入ってきます。そういったことばを見ることによって語彙が増えることもあります。ことばや単語の意味を知るだけでなく,その前後のことばや例文を読んだりすることによって,ことばの拡がりを体感できることでしょう。愛用の辞書を持つことも辞書を引く気を起こさせる要因になります。少しくらい値が張っても皮革のカバーの辞書を使い込むのもいいでしょう。使えば使うほど味が出てきます。自分の手垢で少しずつ汚れていく辞書は,それ自身自分のことばの容量を増やしている証にもなるのですから。
10/11/11
嗜好品と収集
食べ物にせよ飲み物にせよ,嗜好はそれぞれ人によって異なります。ラーメンでは細い麺が好みだとか,太い麺の方が歯ごたえがあり美味しいとか,縮れている方がスープが絡みやすいので好きだとか,一人ひとりの嗜好があることでしょう。あるいはあっさり系かこってり系だけでも『論争』になりかねません。ラーメン店が日本中どこにでも点在しながらも,人それぞれのひいきの店は限定されることでしょう。目玉焼きには何をかけるか,という命題もその結論をまとめることは,より難しいかもしれません。コーヒーや紅茶など,好きな人は豆や葉にこだわるのはもちろんのこと,カップやスプーンにまで気を回すことだってあるでしょう。
何かのきっかけにより,モノに凝ったりあるいは他人の影響により,モノを集め始めることがあります。それまで気にもとめなかったのに,そのモノへの執着心がある日突然湧いてくることがあるのです。その対象が他人から見れば「何がいいのかしら?」と思われることさえあります。モノによっては『オタク』などと呼ばれることもあります。度が過ぎず,家族や近しい人に迷惑が掛からない程度なら好きにさせてあげればいいのでしょう。一度集め始めさらにもっとレアなものを求め,探し回るようになる段階では,すでに『はまって仕舞った』と言えるでしょう。
モノへの執着は決して悪いことではないと思います。それはひとつのことに対する探求心の現れでもあるからです。何に対しても興味を持てなくなるのは寂しいことです。収集家にならないまでも,自分なりのこだわりのモノをつくることによって,日々の生活が少しは楽しくなることでしょう。決してそれを無理につくる必要はありませんが,いままで気に掛かっていた何かを思い出すのはいかがでしょうか。
10/10/10
単位の話
物質はあらゆる属性を持っています。例えば煉瓦ひとつをとっても,その質量や大きさ,色などといったさまざまな属性を持っています。物質だけではなく生物や天体なども同様です。ヒトの場合,身長や体重,あるいは肺活量や血糖値などがあります。地球ならば質量や公転・自転の周期,あるいはその数値が大きすぎて想像がしにくい質量も存在します。こういったモノはすべて数値化されます。質量の単位ならkg(キログラム),長さならm(メートル)やcm(センチメートル)あるいはkm(キロメートル)などでしょうか。長さについては国によって異なることがあります。インチやマイルを使う国や,日本でも昔は尺貫法使っていました。いまでも大工が使うことがあります。ゴルフではヤードを使うなど,場面場面で変わっていきます。
物質の質量を表すものとしてはg(グラム)やkg(キログラム)があります。体積を表す ℓ (リットル)や mℓ (ミリリットル),kℓ (キロリットル)などがあります。ところが正確にいうとこれらはすべてが単位ではありません。通常質量の単位はg(グラム)で,長さの単位はm(メートル)です。それらの前につくk(キロ)とかc(センチ),m(ミリ)などは単位ではなく位取りなのです。小学生の頃には長さの単位は主にcmを使うことが多かったでしょう。こどもの身の回りのモノの長さはメートルよりもcmの方が馴染みやすいでしょう。それゆえmm(ミリメートル)もそれでひとつで単位だと勘違いしている人も多いことでしょう。m(ミリ)は1000分の1,c(センチ)は100分の1という意味です。逆にk(キロ)は1000倍です。パソコンの普及によりM(メガ)やG(ギガ),T(テラ)などは知られるようになりました。本来は物理で使われるようなこれらの記号は市民権を得ました。
位取りは大きい数や小さい数を表すのに便利なためたくさんの文字が割り当てられているます。それでは元となる単位はどう決められたのでしょうか。その昔,1メートルは地球の子午線の長さの4000万分の1と定義されました。現在ではその定義は変わってしまい光の一定の時間の進む距離となってしまいました。この定義では直感的に分かりにくく,不正確さを含めながらも - それも本当に無視できるわずかな数値ですが - 昔の定義の方がしっくりします。一秒の長さ,1kgの決め方などどう決められたのかを考えてみるのも面白いでしょう。電気に関する単位などは,いくつもの複雑な組み合わせを簡略化して新しい単位を定義したモノもあります。
10/09/09
転居
必要のないことをあえてするタイプの人が居ます。まだまだ使えるのに財布やカーテンを替えるとか,捨ててしまうビンをわざわざ洗うとか,シュレッダーに掛かる前の書類を手で破くなど様々なことが挙げられます。金運を上げるためにあるいは運勢を変えるために財布やカーテンを替える人も居るでしょう。汚れたままビンを捨ててしまうのがしのびなく洗わないと気が済まないのかもしれません。シュレッダーに入れやすくするために紙をちぎる必要があるのかもしれません。そうではなく理由を持たずにカーテンを替えたりビンをきれいにしたり,あるいは紙をちぎる作業をするという行動をとる人が希に居ます。当の本人に理由を訊いても「特に理由はない」などと返事が返ってきます。けれども,人の起こす行動にはすべて,何らかの理由があるはずなのです。
必要がないのに転居を繰り返してしまう人も居ます。そういった類の人は多かれ少なかれ放浪癖があるのでしょう。仕事や親の都合で転居することはそれなりの重労働となります。荷造りをして,郵便局や電話局などへ転居の手続きをし,近所には挨拶をしに行かなければなりません。引っ越しが済み新居での荷物の整理をし,完全に落ち着くまでにはひと月は掛かることでしょう。このように必要性のある転居でさえかなりのエネルギーを要するのに,あえて必要がない転居をするのにはいったいどのような行動理由があるのでしょうか?
元来ヒトは狩猟をしながら生活をしていました。狩りをして獲物が居なくなれば新たな地を目指して移動していきます。必要のない転居をする理由にはそんなことが関係するのかもしれません。遠い祖先の血がどこかで引き継がれているのでしょう。若いうちは転居を繰り返してしも,年齢を重ねていくと落ち着いていくのは,安住の地を得たいからかもしれません。自分がどの歳で帰れる場所を得,そこを自分の終の住み処とするのか,あるいは年齢に関係なく自分にとっての約束の場所を探し求めるのか,そんなふうにヒトのタイプは分かれるのかもしれません。圧倒的に前者のタイプの方が多いのは,やはりいつかは安心して過ごせる場所を求めているからでしょう。
10/08/08
火の穂 ~ほのほ~
こどもの頃に,地面を掘っていくと地球の裏側に出ることが出来る,そんな話を聞いたことはないでしょうか。日本から見ると地球の裏側はブラジルもしくはアルゼンチン付近です。そうだとするとブラジル人は日本に足を向けて立っているので,地球から落ちてしまうのではないだろうか?そんな単純な疑問を抱いたことがありました。もちろんそれはあり得ないことだし,逆にブラジルから日本を見れば,日本人は地球から放り出されることになります。地球はその天体上に存在する生物はもちろんのこと,植物あるいは山や人工物であるビルなどと比較してもあまりに大きいので,あらゆる物体が宇宙に飛び出せないほどの強大な引力を有しているのです。地球の強大な引力から解放されるためには,人工衛星やスペースシャトルのように,秒速7.9kmほどの速度が必要となります。第一宇宙速度と呼ばれるこの速度でさえも,地球の周りを回るだけのことしか出来ません。地球から離れるためには第二宇宙速度といわれる速度が必要で,その速さは秒速11.2kmです。
地上数十キロメートルから物体を落下させる実験を,月面上から観察したとしたらどのように見えるでしょうか?おそらく地球の中心に向かって物体が移動しているように見えるでしょう。そもそも上下とか左右という概念は人間が考えたもので,宇宙空間から見れば球体には上も下もないでしょう。ニュートンが考えた万有引力の法則も,『外』から見ると「物体は球体の中心に引っ張られる」と集約されるのです。けれどもこの引力に逆らう現象もあります。それは物体が燃えるときの炎です。炎は地上から見て上空へと進んでいきます。物体が地面へ移動する方向とは逆です。炎が地球の引力とは逆の方向に進むのは,炎それ自身の熱により周りの空気を圧縮し密度を小さくし,上昇気流をつくるからなのです。
引力に逆らって進む炎でさえ,地球に存在する酸素が不可欠です。物質が燃焼することは物質が酸素と化合する酸化反応です。古い本が茶色く変色することも,長い時間を掛けて燃焼していることになります。火の穂(ほのほ)が炎の語源だと言われています。胃炎や腸炎など病気にこの漢字は用いられます。ブログが炎上したなど,どちらかというと悪いイメージで使われがちです。それだけ『化学反応』が急速の行われていることが感じられるからでしょう。人類の文明発展において欠かせなかった炎は,その使い方次第でいい方にも悪い方にもその気流を変えてしまうことでしょう。
10/07/07
メモ代わりの紙ナプキン
自分の身の回りで本来の使用法と異なる使い方をしているモノはあるでしょうか。使い古した歯ブラシをキッチンの掃除に使ったり,余っているカップを筆立てにすることなどはよくあるパターンでしょう。空き缶の灰皿,メモ代わりの紙ナプキン,針金ハンガーの二次利用など誰しも覚えがあることでしょう。ただし,既存のモノをそのまま使っていると不便さを感じ何か工夫できないだろうかと考えつく人も居ることでしょう。そこに新たな創意工夫がみられ新しいモノが考えられ,それが商品化されることさえあります。
主婦が特許を取り,ひと財産とまではいかないまでも,それなりに収入を上げているケースを耳にしたことがあります。もっとも特許の中には洗濯機の中に入れて糸くずを取る商品や,かかとの部分を削っただけの「ダイエットスリッパ」など,ちょっとしたアイデアから生まれかなりの収益を上げた商品もあります。そこまで大げさに考えなくても,ふだん捨ててしまっているモノや,押し入れや棚の奥の方に忘れ去られたモノたちをよみがえられることを考えるのはいかがでしょうか。特にモノを捨てられない人にとっては脳のトレーニングにもなるので一石二鳥です。「そんなことをすると余計モノが増えて困る!」という意見もあるでしょうが,一度試みてそれでも思いつかないのならそこで思い切って捨ててしまうくらいの気持ちで臨むことをお勧めします。モノとの決別をつける良い機会になることでしょう。
太さの異なる罫線を何本か印刷しただけのバーコードは,いまやほとんどの商品に付いています。十数本の縞模様状の線の太さによって数値や文字,記号などの情報を変換し商品管理などに充てることが可能です。さらに,バーコードをデザインの一部にしてしまうデザインバーコードなるものまでも登場しました。人間の考えるアイデアに無限の可能性を感じさせるひとつの例です。一次元的なバーコードからさらには二次元的なQRコードはもはや市民権を得ました。本来の使用方法をあえて変えて使ってみるところから,新しい発想が生まれるのかもしれません。
10/06/06
変身願望
よく「上を見ればきりがないし,下を見てもきりがない」などと言います。学校の成績にしても,スポーツなどの記録や,あるいは生活レベルなどさまざまな場面で言えることでしょう。贅沢を続ければいつか破綻をし,かといって節約ばかりの生活では息が詰まってくることでしょう。ときには羽目を外したくなることは誰にでも感じることです。自分の容姿に満足せず,いわゆるプチ整形をする若者が増えているようです。就職活動で少しでもよく見られるためにそうする人もいるでしょう。そこまでしなくても,履歴書に貼る写真に手を加えることもあると聞いたことがあります。何も容姿に限ったことではありませんが,誰しも自分を変えてみたいと思っていることでしょう。
もちろん,今の自分を否定することではないにせよ,何かを変えてみたいと感じることはそれぞれの持つ欲望です。その気持ちが失せることは自らの成長を止めることになります。ただ,コツコツとやっていくには時間がかかります。何かの切っ掛けで思いっきり変わりたい,そんな変身願望を抱くことは決して不自然なことではありません。では人はいきなり変わることができるのでしょうか?人と人との繋がりの中で生きている社会では,それは難しいことでしょう。特に年齢を重ねてしまった人にとっては重荷になるでしょう。社会的地位や信用を保ちつつ大きく変えることは困難です。けれども若い人のそれらはまだまだ軽いはずです。自分を変えたと願うのなら,思い切って環境を変えることです。それが学校を休学したり替えてしまう,あるいは辞めてしまうことだって考えられます。
ただし,それには次に向かう新たな目標を持っていることが大切です。いやだから辞める,といったネガティブな理由では,新しい環境でもすぐに同じことが繰り返されるでしょう。ポジティブな行動をとらなければすぐに止まってしまうのは火を見るよりも明らかです。でも,それくらい過激な発想を持ち実行力がなければ変身は望めません。それができないのなら現状に不満を言わず,いまの環境の中でどれだけのことが自分に出来るかを考えるべきでしょう。
10/05/05
身から出たサビ
その昔,駅のホームは全面的に禁煙ではありませんでした。駅構内の柱ごとに吸い殻入れが設置されていました。乗車口に当たる場所の線路の向こう側には「乗車口」と書かれたプレートの下に「吸い殻は吸い殻入れに」と記されていました。それにもかかわらず,駅のホームや線路の敷石にはたくさんの吸い殻が散乱していました。ホームの吸い殻は駅員が掃除をし,敷石のそれらは定期的に清掃会社の人が拾い集めていました。それがいまでは,ほとんどの駅で全面的に禁煙となっています。駅ばかりではなく,公共の場所や多くの会社などが入っている建物で禁煙としているところが増えてきました。地域によっては路上での喫煙も禁止されています。居酒屋や飲食店など,どうしても喫煙する機会の多い場所でさえ禁煙とするところが出てきました。愛煙家にとって非常に過ごしにくいこうした状況になってしまったのは,愛煙家自身のこれまでの行為によるものでしょう。周りの人に配慮せず,駅でも公道でもあるいは小さなこどもが居るような場所でも遠慮なく楽しんでいたのです。そして無神経に吸い殻をその場に捨ててきました。すべての愛煙家がそうしていたわけではなく,むしろきちんとルールを守り周りに気を掛ける人の方が多いことでしょう。けれども,一度や二度は道端に吸い殻を捨てたことはないでしょうか。
電車に乗ると,車掌のアナウンスで「長い座席は7人掛け,短い座席は3人掛けです。詰めてお座りください」といったものがあります。空いている電車の中では,余計なお世話のように思えます。さて,7人掛けの座席に5人座っている場合は比較的次の人は座りやすいでしょう。ところが6人が座っている場合はどうでしょうか。先に座っている人たちの状況によるでしょう。車掌の言うとおり詰め合わせて座ろうとしていれば最後の一人も座りやすいでしょう。ただ,徐々に混んでくる場合は,座っている人たちもそのタイミングが難しいこともあります。座るときに他人とはある程度間隔をとって座るという心理が誰にしもはたらくからです。その結果,電車の座席は強制的に鉄のパイプで仕切られたり,一人ずつ座るように座席を型取ったりするようになりました。
喫煙の場合も,座席を詰め合わせて座らない行為にしても人々のモラルに関わることでしょう。ある程度のルールを守っていれば,このような状況までにはならなかったことでしょう。過ぎてしまったことは仕方ないことです。それよりも,こういった経験をどう生かすかが人がもつことの出来る知恵でしょう。こどもたちは大人の行動を見ています。正すはずの大人達が間違ったことをしていては何の説得力ももちません。
10/04/04
大学と就職活動
大学での就職活動がいまのように早くなったのはいつの頃からのことでしょうか。いまの大学生の場合,早ければ大学三年生の春に説明会が始まり,秋には就職活動が本格化してきます。学生が一定期間企業などで研修生として働き,自分の将来に関連のある就業体験を行える,インターシップという制度があります。インターシップの場合,三年生の夏前から活動を始める学生も居るようです。大学で学ぶ期間は通常四年間です。入学して二年半,場合によっては修学期間のほぼ半分しか過ぎていない時期から就職活動を始めることになります。学生の本分である勉強はどこへ行ってしまったのでしょうか。
いまの学生の親の世代では,就職活動は大学四年の10月が解禁でした。青田買いの問題があったものの,いまよりもはるかに穏やかでした。「昔は良かった」などと言っているわけではありません。いまの時代の就職活動の風潮では,学生が本気で学べる余裕などないのです。もし,本気で専門分野を学びたいのなら,大学院に進むことがまともな考え方でしょう。多くの大学生を見ている限り,学生生活も中盤に差しかかると,就職のことばかり気に掛けているように見えます。もはや大学は良い企業に就職するための一つの通過点として捉えている学生が多いようです。大学は企業のための人材派遣会社ではありません。けれども,この不況の時代にそうならざるを得なくなったのでしょうか。
学生を送り出す大学にしても,それを受け入れる企業にしても,いまのこの状況にメスを入れ改革し直す必要があるのです。学生時代にしっかりと学ぶ,あるいは学生自身が大学に在籍している間に「これだけは誰にも負けません」と自信を持って言えることをする経験が必要に思えます。マニュアル本を読み,こざかしいエントリーシートでその人の本質を見抜けるのでしょうか。そんな大人が増え,将来彼らが逆の立場になり人を採用するときに,人を見る目は養えるのでしょうか。学校教育法第83条では「大学は,学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させることを目的としている」とあります。このことを肝に銘じ,大学は決して企業の下請けななどではないという考え方をもち,それを学生に示すべきときなのです。
10/03/03
同じ形の文字
ひらがなの「へ」とカタカナの「ヘ」はまったく同じ形をしています。試しにワープロなどで両方を入力して大きなフォントにしてみて下さい。どちらも同じ形をしているのが分かることでしょう。そこで問題です。「へ」のようにまったく同じ形の文字がひらがな・カタカナの中にはもう二組あります。それはどの文字でしょう?この問題を出すと,「あ」から「ん」までの五十音をひらがなとカタカナすべてを書き出す人が居ます。それでもなかなか答が出ません。挙げ句の果てに「そんな文字はない」とさじを投げてしまうこともあります。それとは逆にすぐに答を発見できる人もいます。この手のなぞなぞ的な問題が得意な人とそうでない人は案外はっきり分かれます。どこに違いがあるのかは,科学的に検証されたということは聞きませんが,観察力や発想力の違いがあるのかもしれません。
まともな方向からだけの発想ではものごとが解決しないこともあります。歴史上の発見なども,それまでの発想では限界があり新たな概念から生まれたものもあります。立たないはずの卵を立ててしまった「コロンブスの卵」や,針金を曲げただけでできてしまうゼムクリップなど,その『答え』が分かってしまえば誰にだって実現が可能だったり,作成できるものです。答の分かっている問題の解答を得意げになって発表しても,それはあくまでも他人の発想をまねただけなのです。タネの分かっている手品を見ているようで,聞いている側はしらけてしまいます。そこには何の喜びも見いだせませんし,新たな概念など生まれてこないでしょう。
最初の問題の答も解ってしまえば「な~んだ」と思うかもしれません。でも,その答をどのタイミングで発想できるかかが鍵なのです。すぐに答を求めるのではなく,考え続けることが大切なのです。断続的でもいいので,考えることをやめなければいつか解決することでしょう。学生時代を思い出してみて下さい。解けなかった問題ほど忘れられなかったことを。そして試験後に解答が分かったときの悔しさも。けれども,そういった経験によって人は成長していくものです。さまざまな疑問が安易に解決できるようになったいまの時代こそ,じっくり考える時間も必要だと思います。
10/02/02
上り坂・下り坂
「日本には上り坂と下り坂のどちらの方が多いでしょうか?」といったなぞなぞがあります。こう訊かれたらなんて答えるでしょうか。毎日の通勤や通学で上り坂で苦労している人は「上り坂」と答えるかも知れません。高台に住んでいて駅までの道がスムーズな人にとっては「下り坂」を感じるかもしれません。でもちょっと考えてみてください。行きが上り坂の人にとって,帰りは下り坂になります。当然その逆のこともいえるのです。来た道を帰るときには,上り坂が下り坂になるのです。もう,なぞなぞの答えはお分かりになったことでしょう。
人生の起伏もよく坂道で例えられることがあります。順風満帆にいっているときは「坂道を駆けあがっている」というような表現をします。逆にうまく行かないときには「坂道を転げ落ちていく」と言います。上り下りという文字がないものの,前者が「上り坂」で「後者が「下り坂」であることは誰にでも分かることでしょう。上り坂の類義語には「上り調子・成長期にある・隆盛・波に乗る・勢いがある」などがあります。どの言葉も状態が良好であることが分かります。一方「下り坂」はどうでしょうか。「盛りを過ぎる・とうが立つ・衰退する・先細り・峠は過ぎた」など,聞いているだけで元気がなくなりそうな言葉ばかりです。
いまの自分は「上り坂」の途中に居るのか,すでに「下り坂」に入ってしまっているのか,そう問われたらどう答えるでしょうか。状態のいいときにはあまり後ろを見ることもなくそのまま進もうとすることが多いでしょう。物事が順調に進んでいるとき,人は反省を忘れることがあります。病気になって始めて健康の大切さを知る,ではないのですが坂を上っているときにこそ,一度足を止め振り返ることも必要だと思います。起伏の激しい人生を送る人もいるでしょう。長いなだらかな坂道をゆっくり上り下りする人もいるでしょう。けれども,一生の間に通り過ぎる坂道の上りと下りの数には,それほど大きな差はないでしょう。日本にある上り坂と下り坂の数がそうであるように。
10/01/01
手帳と日記
三日坊主の代表として日記があります。年末や年度末が近づくと,書店では日記帳が並びます。「今年こそは絶対につけるぞ」などと思い記しはじめるものの,三日までとはいいませんが,月末になるとすでに何日か空白が出来てしまい,結局そのまま放置されることが多いのではないでしょうか。そもそも,毎日つけるという枷を掃かせることが,却って継続することへの障害になるように思えます。
毎日の出来事をわざわざ日記として残すのではなく,ふだん使っている手帳に気軽に書くのはどうでしょうか?予定を書き,気が向いたときにその結果を記すのです。たったそれだけでも,数ヶ月あるいは何年かして見返すと「あのときにあんなことがあった」などと思い返すことが出来ることでしょう。大人になると鉛筆で書くこともないでしょうから,予定が変更になったときには,その経緯を少し書き残すといいでしょう。約束をキャンセルされたのなら,相手へのイヤミをひと言ふた言入れておくのも,あとで見たとき楽しいかもしれません。その当時はちょっとカッカしてしまったことでも,時間が経てば笑えることもあるでしょう。その逆で,再び怒りが湧き起こるかもしれませんが。
銀行の預金を引き出す際に,通帳に簡単なメモを残している人が居ます。「ノートパソコン購入」とか「通勤定期購入」などひと言添えるだけです。たったそれだけでも後年,通帳を開いたときにその頃の自分の状況を思い出せることでしょう。記されている年月日は何よりも正確なはずですから,如実にその頃の自分を語ってくれるはずです。人は忘れていく生きものなのだから,日記でも手帳でも,あるいは通帳でも構いません。そうした記憶の手がかりがあれば,さまざまな節目の中で生きてきていることに気づかされることでしょう。年の初め,年度の初めから付けはじめるなどという決まりはありません。思い立ったときが始まりなのでしょう。