12/12 十八歳未満・2 11/11 検定試験 10/10 ノーベル賞と学校教育 09/09 モラルク 08/08 親と子 07/07 洞爺湖サミット 06/06 十八歳未満 05/05 記念日 04/04 ガリ版 03/03 二者択一 02/02 ケプラーの法則 01/01 年賀状

08/12/12
十八歳未満・2

未成年の飲酒や喫煙が法律で禁じられているのは大人はもとより,こどもでも知っていることです。その大きな理由が体への害があることも知られています。昔に比べると高校生の喫煙率は低くなったように感じます。平成16年度の「未成年者の喫煙および飲酒行動に関する全国調査」によりますと,未成年者の喫煙経験率は以前の調査に比べ減少しています。その要因はその後の調査研究で,家族や友達の喫煙率の低下・減少が関係しているのではないかと示唆されています。タスポ導入によりこの低下率はさらに下がることが予測されます。それ以外にも,たばこの値上げや,たばこに自分のおこづかいを回せるほど余裕のないこどもの経済事情が考えられます。どこに回されたのでしょうか。

飲酒・喫煙が未発達なこどもの体への悪影響があるように,いまの世の中で学習弊害あるいはこどもの心への侵蝕の原因の最たるものに携帯電話が挙げられます。ここ十年ほどで瞬く間に普及した携帯電話ですが,その未成熟な機械にこどもたちの心は蝕まれたと言っても過言ではありません。それらを買い与えているのはほとんどの場合大人である親です。

携帯電話による弊害の一つ目に,学習能力が下がったことが挙げられます。勉強していてもメールが気になり集中できず,頻繁にチェックしている子が多いのです。果たしてどのくらい必要のあるメールがその中にあるのでしょうか。携帯電話を持っていないと,友達とのコミュニケーションが取れない,そういうこどもが居ます。みんなが持っているから起こる現実です。もしいま,十八歳未満のこどもに携帯電話所持を法的に規制したらどうでしょうか。こどもの安全を考える親もいます。それならばGPS機能のみに特化したものを持たせれば十分です。確かにこどもが危険な目に遭う事件が後を絶ちません。けれども,携帯電話を持てば安全なのでしょうか。それはあくまでも親の安心感のことだけで,たった一人で行動しているこどもがいて,そのこどもに危害を加えようとする大人がいれば携帯電話など何の効力も発しません。こどもの安全を犠牲にしろと言っている訳ではありません。携帯電話に過剰な期待をするべきではないのです。本当に我が子の安全を願うのなら,もっと別の方法をとるべきでしょう。地域での大人どうしの密接な連絡も必要でしょう。我が子のことしか考えず,メールを打ちながら乳母車を押している母親には,他人のこどもがすぐそばで大人に連れ去られたとしても気づかないかもしれません。

こどもを多く見る機会の職に就いている人なら,誰しもいまのこどもたちの学力低下は否めないことでしょう。そのすべてが携帯電話に起源する訳ではありませんが,多くの要因を作っていることに間違いはありません。

弊害の二つ目は,学校裏サイトや出会い系など明らかにこどもへの害が生じるケースです。いじめの温床になったり,決してこどもには見せたくないサイトが多数存在することを大人はどのくらい把握しているのでしょうか?もはや,これらの発する害は飲酒や喫煙を上回ることさえあります。必要で正しい情報を得たいのなら,大人の目の届く範囲でパソコンを使いインターネットで十分に得られます。もちろん,インターネットにもそういった有害サイトは存在します。けれども,大人の目の届かない携帯電話よりもはるかに規制しやすいですし,そうしたソフトもいまでは充実しています。学校や家庭でインターネットの正しい使い方を教育していくことも必要でしょう。

「生まれたときから携帯電話がある世の中なのだから,今さら使わなくなるようには出来ない」と言う親がいます。でも,たばこもお酒も生まれたときから身の回りにあります。「携帯電話は嗜好品でなく,道具として使うのだからたばことは違う」と言う大人もいます。間違ってはいません。それでもあえて規制は必要だと提言します。このまま携帯電話をこどもに使わせるのなら,これからの日本の発展はさらに減速していくでしょう。減速だけならまだましかもしれません。経済も政治も文化も,マイナス方向へと進んで行ってしまうかもしれません。それはいまのこども達にって非常に不幸な未来と言えましょう。生まれたときから身の回りに携帯電話がある世代が社会の中心になる前に,いまの大人が直していくべき時期が来たのです。  

08/11/11
検定試験

中学校や高校では,生徒に英語検定や漢字検定を積極的に受験させる学校が増えています。良い傾向だと思います。目標もなく英語の文章に取り組んだり,漢字の書き取りを毎日するよりも,自分がどのくらい努力してたくさん問題に取り組んだのか,多くの漢字を知ることにより新たな知識が増えたのか,それを知る機会になります。どちらの検定も学年に関係なく“飛び級”が出来るので,努力次第ではいわゆる当該学年よりも先に進めるのもやる気を起こす切っ掛けになるのでしょう。英検に関しては,中学2年生ですでに2級を取っている生徒が居る学校があることもそう珍しくありません。英検2級は高校2年から3年程度の学力といわれています。小学4年生で漢検4級を取ったという話を聞いたこともあります。漢検4級は中学1,2年くらいの漢字力を必要とします。大事なことは,このこども達が自ら進んで学んでいるということです。

最初はそうでなかったかもしれません。切っ掛けを与えてくれたのは大人(先生や親)だったかもしれません。けれども,英語や漢字に興味を持ち,そこから継続して学んだのはこども達です。させられる勉強よりも,自ら進んでやる勉強の方が身につく度合いが違うのは明らかです。これは普段の学習にもいえることでしょう。確かに進んで勉強をしようとするこどもは少数派かもしれません。特に学年が上がるとその傾向は否めません。試験があるから,進学したいからといったノルマ的な捉え方をするようになります。それだけ打算がはたらきどこかで妥協するのです。高校生にもなると「試験が終わるとみんな忘れてしまう」などという言葉はよく聞きます。ヒトは忘れる生き物ですし記憶力にも限界があります。でも,検定試験を目標に学んだことは,普段の勉強よりも定着率が高いのです。

同じ時間を費やすにしても,目標を掲げ目的意識が高い方が結果的には得をします。意識の持ち方次第で,生きた時間の使い方も出来れば冗長な過ごし方になることもあります。これは何もこどもだけに限ったことではありません。大人にも当てはまることです。ダラダラとした無駄な会議,最初から達成できない設定を作り,結果的に目標が達成されないときに言い訳をするなど,無駄な時間を過ごしているのは大人の方が多いのかもしれません。まず大人が正しい姿を見せた上で,こどもを導くことをするべきだと思うのです。

08/10/10
ノーベル賞と学校教育

今年のノーベル賞の受賞者が発表されました。日本人からはノーベル物理学賞で三名,化学賞で一名が選ばれました。物理学のノーベル賞は古くは1949年の湯川秀樹氏に始まり,2002年の小柴昌俊氏そして今年の南部陽一郎氏,小林誠氏,益川敏英氏が同時に受賞をしました。物理学の難解さはいつの時代も変わらないようで,報道でその内容を聞いても簡単には想像しがたいことが多いようです。一方化学分野では2000年から2002年まで三年連続で日本人受賞者が出て以来,六年ぶりで下村脩氏が受賞しました。物理学に比べると,その内容は理解しやすいものです。オワンクラゲから発見された緑色蛍光タンパク質が,すでに癌の治療に使われたことを,今回初めて知りました。医療現場では当たり前のように使われている模様ですが,この研究がノーベル賞になったことに対して,感心していた医者も居ました。物理学賞も化学賞も今回は受賞するまでの期間が,研究していた時期からかなり要したのが特徴でしょうか。そのため,長い年月を掛けて結果を出す研究がしにくい環境を危惧している向きもありました。

長い年月ほどではないのですが,学校の教育現場でも同様のことが言えないでしょうか。大学入試のマークシート方式がその最たるものでしょう。確かに同時に多数の受験者の採点をするにはいいかもしれません。けれども学校レベルでそれを多く取り入れるのはどうでしょうか。数学は問題を解く過程が重要になります。化学や生物においては,実験や観察など時間や根気のいるものもあります。それなのに決まった時間内で型にはまったような問題ばかりを,しかもその結果ばかり追い求める勉強を学問と呼ぶには遠く及ばないでしょう。

今回受賞した益川氏は文部科学大臣を表敬訪問したときに「選択式の試験問題で,教師は『知らない問題はパスしろ』と指導し,考えない人を育てている」と指摘しています。同時受賞した小林氏も「今の教科書には最低限のことしか書いてない。全体のストーリーが見えない」と意見を述べていました。すべてが不要というわけではないのですが,択一式の問題に頼りすぎているきらいがあります。これらを正す第一歩はやはり学校教育から始めるべきでしょう。そのためには教員の学習面における指導力の向上が必要です。研究時間の確保は難しいかもしれませんが,その環境作りを本気で考えなければ,科学先進国といえる日本がいつまで続くか心配です。それでも,現段階で日本の科学分野のレベルの高さが示されたのですから,これから大学で科学分野での活躍を夢見るこどもたちが増えていくことが,今回の受賞で期待できるでしょう。

08/09/09
モラル

当たり前のことですが夏休みは,こどもたちの姿がいつもより多く街中で見受けられます。朝早くから友だち同士で出かけたり,親子連れだったりします。通りに出ると信号待ちのこどもたちを見かけます。海や山,あるいは遊園地へと向かう顔は,これから過ごす楽しい時間を容易に想像させてくれます。そんなこどもたちを横目に,大人達がわずかな時間さえも惜しいのか,信号を無視して横断していく姿を目にすることは珍しくありません。こどもたちがちゃんと信号を守り,青になるのを待っているすぐその目の前でです。

夏休みはまた,家族で出掛けることも多いようです。家族連れで気に掛かる光景を時々目にします。それは,明らかに小学校低学年と判るこどもを,自分の体にピッタリくっつくようにして,改札を通り抜ける母親の姿です。自動改札になってから,ほとんどの駅の改札から駅員の姿が消えました。それをいいことに,こどもの運賃を『節約』しようとしているのでしょう。近場ならともかく,少し遠出する場合には電車運賃もそれなりに掛かることは分かります。けれども,やはりやってはいけない行為であることは言うまでもありません。

学校給食費を払わない親が最近では増えてきているようです。支払わない理由を並べ立てる親も居るようです。税金でまかなえばいい,少子化に拍車が掛かる,勝手に出している給食に対して支払う義務はない,などなど。給食の是非について問うのは構いませんが,現行の学校給食法では「学校給食を受ける児童又は生徒の学校教育法第22条第1項に規定する保護者の負担とする」となっています。給食費を支払うことは,義務教育を受けている児童・生徒の保護者にとってはその義務があるのです。支払いもせずその義務を放棄し,支払わない理由だけを述べるのは,言い訳の出来ない逃げ口上でしょう。それよりも,その姿を見ているこどもたちはどう捉えるのでしょうか。

こどもは親や身近な大人達を見て育ちます。大人になったら信号は守らなくてもいい,支払わなくても済むものは無視してしまう。そんなことが当たり前だと理解して育ってしまったら,そのこどもたちのさらに後の世代までもそう思う世になるかもしれません。人に見られているからこそ実行することもときには必要なことです。こどもは見ていないようで見ています。信号を無視する大人を見て「あんな大人になったらダメだよ」などと思われないように行動したいものです。

08/08/08
親と子

1964年の東京,1988年のソウルに続き,アジアで行われる三度目のオリンピックが中国・北京で始まりました。中国での初めてのオリンピックは,開会式の日時にこだわったようです。西暦2008年8月8日午後8時8分に開幕しました。日本でも「八」の字は末広がりとして縁起のいい数字と考えられていますが,中国ではそれ以上に捉えられているようです。ただでさえ「8」が並ぶ日ですが,今回はオリンピックが開幕するということも重なり,我々日本人が考えている以上に盛り上がっているのかもしれません。どうしてもこの日を我が子の誕生日にしたいと願っている,大きなお腹の母親も居るようです。中国での一人っ子政策の煽りもあるのでしょうか,中国人のこどもに対する期待は日本人のそれよりも大きいように感じます。

「親の心子知らず」ということわざがあります。逆に「子の心親知らず」というものもあります。これらのことわざの持つことばの中には,親が子を思う気持ちを,我が子から感じられない苛立ちや,いつまで経っても親からこども扱いされ,成長し発達していることを認めてもらえないこどものもどかしさが感じられます。そこには親と子の心の交流が残っているように思われます。けれども,ここ数年の親殺し子殺しには,そんな気持ちなどみじんも感じられません。当事者でもなければ近しい人間でもないので,本当のところは解りません。でも,防ぐ手立ては無かったのでしょうか。

人の行動にはすべて理由があります。事件を引き起こした背景や過程を探ると何かがみえてくるはずです。身近な人間がそういったシグナルを出しているならば気づいあげたい。まともな心を持っている人なら誰しもそう思うものでしょう。「孝行したいときに親はなし」ということわざもあります。子が親より先に死ぬことは何よりの親不孝だとも言われます。あってはいけないことでしょうが,絶望的な状況よりも少しはましだと言えるかも知れません。そんな世の中が長くつづかないように願いたいものです。

08/07/07
洞爺湖サミット

北海道洞爺湖サミットが,主要8カ国に加えアフリカ7カ国の首脳による拡大会合で開幕しました。世界的なインフレによる食糧不足の問題や,地球温暖化の対策として,二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量をどのように抑えるかなど,たくさんの問題が山積みされています。特に環境に関する問題は,これからの社会を担っていくいまのこども達のことを考えると,彼らよりも少しだけ先に生まれてきた大人達が,常識的なそして理性のある道をつくっておく義務があります。世界の中のほんの一部の地域でしかない日本でさえも,ここ最近の異常なくらいの夏の暑さや,猛威を振るう台風の増加など,明らかに変調が見られます。もはや日本の気候は,亜熱帯地方に属しているのではないかとさえ思えるほどです。世界に目を転じてみても,一方で干ばつや砂漠化が進む地域があれば,川の氾濫で街が消えてしまうようなことが当たり前のように起こっています。

原油高騰による世界的インフレが起こっています。その原因は世界経済が複雑に絡み合っているので,専門家でも簡単に分析できるモノではないでしょう。そんな中,いま世界では「二酸化炭素排出権」なるものが取引されています。京都議定書で先進各国には二酸化炭素の排出量が規制され,その目標値が達成できた場合は他の国に排出量を金銭で売買できる仕組みです。技術力で海外に貢献した場合は,その分排出量が許されることもあります。ただ,いずれにしても机上で計算された『見えないガス』の量を売買するという,これまでにない取引です。こういった取引の是非は問われることは当然でしょうが,経費が掛かることにより,企業が温室ガスの排出量を抑えようとする効果もあるようです。このような取り組みを始動させるためには,世界的な規模となるので計画が出来上がったとしても,それを実現するにはそれなりの時間が掛かってしまうのです。例えば2050年にあるひとつの目標を定めるとします。開始が2030年だとすると,その10年くらい前には動き始めなければならないのです。それはすなわち2020年のことです。決してずっと先のことではないのです。環境問題のことを考えている大人達のほとんどは,おそらくそれを論じている時代にはこの世を去っていることでしょう。けれども,いまのこども達やさらにそのこども達のことを考えると決して他人事ではないのです。

買い物時のエコバッグや,使用していないときの家電製品のコンセントを抜く,いわゆる待機電力の削減など,身近なところで出来ることを実践するようにさまざまな場面で言われ始めています。石油に頼らない,風力や水力による発電で生活のほとんどの電力を得る試みをしている海外の地域もあります。地球という限りある資源を食い潰しているのが人間ならば,その貴重な資源を大切に使えるのも人間でしょう。一人ひとりが環境を思うことは大切です。そういった気持ちをさらに共有して,広げていくことを大人からこども達に伝えていくことが大人達の使命ではないでしょうか。

08/06/06
十八歳未満

お酒やたばこは成人,すなわち二十歳にならないと飲んだり吸ったり出来ないことは社会の常識です。未成年の飲酒は法律でも禁じられています。その理由として,未成年者における飲酒は体にダメージを与えるだけでなく,体の成長も阻害してしまうからです。喫煙も健康を害するという点では一致しますが,これは何も未成年者だけの話ではありません。一時期,居酒屋では明らかに高校生と分かるグループにお酒を出していました。行政指導もあったのでしょうか,今では年齢確認をする店も増えてきました。たばこにおいても,自動販売機で購入する際に,成人識別カード・taspoの導入が始まりました。いずれも法的な規制が徐々に厳しくなってきたのです。言い換えれば,法的に抑制しなければ,未成年者の飲酒や喫煙を制限することが難しいということでしょう。

携帯電話の普及がここ十年ほどで急速な勢いで進みました。電車の中ではかなりの数の人がケータイの画面を見ています。街中でも歩きながら,時には小さなこどもの手を引きながらもケータイのメールをチェックしている母親の姿を目にします。ケータイは確かに便利な道具で,今の生活には欠かせないモノとなりつつあります。大人に関しては自己責任でそれもいいかと思います。けれども,それがこどものこととなるとどうでしょうか。

小・中学生はもちろんのこと,高校生においてもケータイによる弊害はいくつもあります。高校生のケータイの所持率が伸び始めた初期の頃は友達どうしの電話やメール程度だったので,まだそれほど大きな問題はなかったでしょう。月額使用料が異常に高くなり,驚いたお母さん方は居たかもしれませんが。ケータイが電話の機能よりもメールさらにはWebへと広がりだした頃から状況が変わってきました。弊害の一つ目は明らかに昔に比べると,こども達が勉強をしなくなったということです。絶対的な勉強量は減少しています。原因のすべてがケータイにあるわけではありませんが,その要因の一つであることは間違いないでしょう。ケータイでネットに接続できるようになってからは,学校裏サイトなどへの書き込みによる新たなイジメも発生しています。便利な道具をまだ上手に使いこなせないこどもに持たせれば,どんなことが起こってしまうかはすでに大人達が見てきました。もう,これ以上こども達にケータイを持たせることをやめる時期になってきたのではないでしょうか。フィルタリングによる規制も出来るようですが,それも完璧ではありません。こどもの安全を言う親も居ますが,それもGPS機能に特化したモノを持たせれば済む問題です。機械に頼るだけでなく,もっと人と人が密接にあるべきはないでしょうか。ケータイによるこどもへのダメージは,おそらくほとんどの大人が思っているよりも深刻です。もはや法的な規制でもしない限り,今の状態は改善しないところまでになってしまいました。

08/05/05
記念日

一年の中には祝日が何度もあります。五月五日はこどもの日です。端午の節句であるこの日は,男の子の健やかな成長を願い,平安時代からあったようです。もともとは旧暦の「午(うま)」の月,すなわち五月の「端(はし=始まり)」の日を指していたようです。端午の節句は午の月の端の日がその由来のようです。現在では,「午」と「五」の語感が同じと言うことで,五月五日に制定しているようです。ただ,地方によっては旧暦で行うため,六月五日に端午の節句を行っているところもあるようです。

祝日は戦後の1948年に「国民の祝日に関する法律」によって制定されました。こどもの日はこの当初から祝日として認められました。その他には元日,成人の日,天皇誕生日,憲法記念日,勤労感謝の日などがあります。建国記念の日は1966年に制定されています。この日は日本書紀にある神武天皇が即位した日とされています。文化の日や昭和の日など,天皇に関する祝日は年間で四日あります。当たり前ですが,すべての祝日には由来があり,すべてが何かの記念日に当たります。天皇誕生日に代表されるように,誕生日など個人的な記念日は誰にでもあるものです。どの学校にもある創立記念日もそうですが,やはり「誕生」した日はそれにかかわる人にとっては大切な記念日になるのでしょう。

建物や橋が建てられると,竣工年月日が記されたプレートが貼られたりします。個人的な記念日としては結婚記念日があるでしょう。いずれの記念日も新たな出発を意味します。終わってしまう記念日もあります。終戦記念日がその代表でしょうか。その他には,歴史上の人物が亡くなってから数十年が過ぎると,没後○○年などと称されてイベントが行われることもあります。終戦記念日は悲惨だった戦争を忘れないためにあるものでしょう。八月十五日ははじめ「終戦日」と呼ばれていましたが,1982年から「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として「終戦記念日」とされました。思い出に残る日も,過去を顧みる日もどちらも記念日として残るものなのでしょう。

08/04/04
ガリ版

その昔,学校で配られるプリントやテスト問題は,先生の直筆によるものがほとんどでした。わら半紙に印刷されているプリントは,インクの匂いがすることもありました。まだワープロも無ければ,いまの時代のように誰でも簡単に印刷ができるような環境はありませんでした。ガリ版と呼ばれるその印刷方法の正式名称は謄写版と言いました。謄写版の発明は,19世紀末にトーマス・エジソンによってその原型が作られ,その後改良が加えられました。英語圏の国にはタイプライターがありましたが,活字の多い日本においては,その後市場にワープロが出回るまでは,小規模的な印刷用具としてガリ版が広く使われていました。

セロファンのような薄い紙にロウが塗られた『原紙』を,先端がコンパスの中心軸のような鉄で出来た『鉄筆』で削り文字を刻んでいきます。『ガリ切り』と呼ばれるこの作業は,硬いヤスリ板の上に置かれた原紙の上を先端が鋭い鉄筆で文字を書くので,鉛筆やボールペンで書くようにすらすら進むものではありませんでした。間違ったときには,いまで言う修正液のようなロウを上から塗り,乾くのを待ってから正しい文字を記します。気が短かったりすると,生乾きの上に鉄筆を当てるので,さらに修正し直さなければならなくなります。印刷は手作業で一枚一枚行っていきます。ちょっと油断すると,インクが服についたりしました。このインクは洗濯しても簡単に落ちるものではなく,当時のお母さん方を悩ましたのではないでしょうか。それだけに,作成する人の気持ちが直に伝わりやすかったものです。

原紙と鉄筆,印刷用のインクと手軽な印刷装置は持ち運ぶことも出来,電気も必要としません。その気になれば,屋外でも印刷が可能です。現在の日本ではほとんどその姿を見ることはなくなりました。けれども,その軽快な“足回りの良さ”から,いまではアフリカやアジアの学校で活用されています。以前,どこかの国の学校で,こども達が楽しそうに印刷をしている姿が放映されていました。こども達に手作りのプリントで勉強を教えていきたと願う気持ちには国境など関係ないのだと,それを見て感じました。

08/03/03
二者択一

○×式の問題に代表されるように,試験問題では二者択一させるものがよく見られます。テレビのインタビューなどでも,YES・NOで答えさせることがあります。三択や四択問題よりも,二択の方が難しく感じることがあります。「リトマス試験紙で青から赤に変わるのは酸性かアルカリ性か?」の問題では,何度やっても悩んでしまう生徒が居ます。信号機では右側にあるのが青か赤か答えられるでしょうか。自由の女神がたいまつを持っているのはどちらの手でしょうか。二者択一問題は,でたらめに答えても正解率は50%です。それだけに,正解して当たり前という捉え方がされた場合,どういう訳か不正解を選んでしまう苦い経験をしたことは誰にでもあることでしょう。

試験問題やクイズなら不正解してもそれほど大きな痛手にはなりません。けれども,それが進路や就職など,人生においての選択を迫られた場合には,その後の生活や生き方においてまったく違った状況を迎えることになります。あのときもう一つの選択肢を選んでいたら,どんな風になったのだろうか,と誰しも一度や二度は思うことでしょう。当然,やり直しなど出来るはずはありません。小さい選択肢を入れれば人生でどのくらいの選択肢があるのでしょうか。

新聞紙一枚を大きく広げ,それを半分に折ります。この作業を10回もくり返すとかなり厚くなります。それ以上折ろうとすると,相当な力が必要になることでしょう。現実には不可能ですが,二十数回折りたためば富士山よりも高くなります。それだけ「2つ」は莫大な数になる可能性を秘めているのです。さまざまな分岐点でどちらを選ぶかを考えたとき,それだけ多くの人生があることになります。一人の人間だけでも相当な数の可能性がある中で,他の人々と関わりを持ちながらすべての人の“いま”があるのです。そう考えると,今日を生きていることさえ無限の中の一つになります。どこかで違う道を選んでいたら,いま関係している多くの人と関わりを持たなかったかもしれません。逆に,本来関わりを持つはずだった人と出会えなかった人生を歩んでいるのかもしれません。それが運命だと言われれば確かにそうかも知れません。けれども,逢っていたかも知れない“あの人”はいまどうしているのだろうか,そんな想いを馳せたくなることもときにあります。

08/02/02
ケプラーの法則

中学や高校で教わる物理の法則はいくつもあります。ニュートンの万有引力の法則や,アインシュタインの相対性理論などは誰でもその名前くらいは知っていることでしょう。その内容に至っては,ある程度のことは知っているかもしれませんが,正確に説明するとなると,大学の物理科などにでも行かないと難しいでしょう。その他にも,一般には広く知られていないけれども,さまざまな物理的な現象を論理的に説明するために必要な法則や原理があります。

16世紀から17世紀にかけて,惑星の運動について研究をしたドイツの物理学者にヨハネ・ケプラーという科学者がいました。ケプラーの業績は,火星や金星などの惑星運動に関するものです。ケプラーの法則は三つのことから構成されています。「惑星の運動は太陽をひとつの焦点とする楕円運動をする」という第一法則は,それまで惑星の運動が円軌道であるという考えを打ち破りました。当時,天体の運動は『完全』である円運動をしているという考えが主流だったのです。楕円運動といっても,ケプラーの時代では誤差の範囲ですまされかねない状況で,彼は正確に計算をしたのです。第二法則は「面積速度一定」というものです。ある一定期間,例えば10日間に惑星が移動する軌跡と太陽とを結んでできる図形(ほぼ扇形)の面積は,冬であっても夏であっても同じであるということです。地球からは遠く離れた惑星運動を観測した膨大なデータから,ケプラーはこの結果も緻密に計算しました。現代のようにパソコンはもちろん,電卓さえない時代にです。

ケプラーはこれだけではなく,次のような第三法則も見いだしました。「惑星が太陽の周りをひと回りする時間(公転周期)の2乗は,軌道の長軸の長さの3乗に比例する」という法則です。地球が太陽の周りを一年かけて回ることは経験的に解ります。けれども,太陽までの距離を出すのは簡単なことではありません。さらに,火星や金星あるいは木星がどのくらいの時間をかけて太陽の周りを一周するのかを想像してみてください。その上で,それらの惑星から太陽までの距離も観測しなければなりません。仮にそれらの結果が分かっていたとしても,計算機のない状態で公転周期や距離の二乗や三乗を計算し,比例することがどうして可能になったのでしょうか。このような地道な観測と計算によってケプラーは惑星に関する三つの法則を導きました。ケプラーは時代を超えた努力の天才物理学者だと言えるのではないでしょうか。

08/01/01
年賀状

一年で一番最初に届けられるものが年賀状です。普段メールで済ましてしまう中学生や高校生でも,先生や友達に年賀状を書くことでしょう。日常生活の中では交流のない古い知人との交信が年賀状だけという人も多いでしょう。その中に記す内容といえば,「今年こそ会いましょう」とか「ぜひ飲み会をしたいものです」などでしょうか。けれども,その約束が守られることは少ないのではないでしょうか。長い時間が過ぎると,お互いの生活環境が変わってしまい,たった一度,会うことさえも困難になってしまうものです。

年賀状のやりとりをするくらいなのですから,ある一時期は毎日のように顔を合わせていた関係だった人もいるでしょう。同じ空間で一緒の時間を共有するのは,学校や仕事場がその中心になります。もっと長い時間を過ごしたいと思う人よりも,クラスメートや同じ部活の同級生,あるいは会社の上司と過ごす時間が圧倒的に多いことがあるでしょう。

今年来た年賀状を見ると,普段会っている人からは「今年もよろしく」と記されることが多いようです。長く会っていない人は近況を伝えてくれることがやはり多いです。毎年,歳を重ねるにつれてこの人達と本当にまた会うことが出来るのだろうかなどと思ってしまいます。それでも一年に一度,お互いの健康を確認できる年賀状はそれぞれの大切な交信手段になるのでしょう。