12/12 半導体 11/11 ミロのビーナス 10/10 要因と行動 09/09 夏休みの宿題 08/08 地球温暖化 07/07 心中という殺人 06/06 モノを作る 05/05 特待生制度 04/04 アクセスの仕方 03/03 マナーと負の文化 02/02 連続記録 01/01 一眼レフカメラ
07/12/12
半導体
パソコンや携帯電話などはもちろん,さまざま電化製品の部品には多くの半導体が利用されています。抵抗値の値が金属などの導体と,ゴムなどの絶縁体の中間物質を半導体と定義されています。『中間』というのは科学的見地からするとかなり曖昧ですが,半導体の状態,すなわち温度や構成される元素などで変化するので,そういった表現の方が適しているのでしょう。原子レベルで見ると,電気を運ぶものは電子です。電子は導体である金属の場合,原子1個につき1個から2個存在します。絶縁体の場合,電気を運ぶ電子は存在しないことになります。半導体は電気を運ぶ電子もしくはその代用となるものが,導体と比べると比較できないほど少ないのです。
半導体は真性半導体と不純物半導体の2つに大きく分けられます。電化製品に使用されている半導体は主に後者の不純物半導体です。真性半導体はケイ素やゲルマニウムなどの金属の単体の他,酸化銅や酸化亜鉛など金属の酸化物が挙げられます。一方,不純物半導体は真性半導体元素であるケイ素やゲルマニウムなどに,ほんの微量の不純物が入ったものを指します。不純物の種類によって,不純物半導体はさらに2つに分けられます。それらはn型半導体とp型半導体と呼ばれています。結晶内の電気(正確には電流)を流すものが負(negative)のものをn型,正(positive)の場合をp型と言います。n型半導体にしてもp型半導体でも,含まれる不純物元素は微量です。微量ではありますが決して0ではありません。この不純物の割合が0でないn型半導体やp型半導体を接合することによって,ダイオードやトランジスタなどの部品が作られます。これらの部品が電化製品になくてはならないことは,それほど電気に詳しくない人でも容易に想像できることでしょう。
「1%でも可能性があるのならば,最後まであきらめない」そんなことばは一度や二度は耳にしたことがあるでしょう。あるいは自分にそう言いきかせた経験を持っている人もいることでしょう。まったく可能性が無いところからは何も生まれません。けれども,ほんのわずかな可能性や希望が持てるところには何か活路が見いだせるのではないでしょうか。打つ手があるのにそこであきらめてしまってはそれこそ可能性は0%になります。息のあるうちに実行するべきです。決してあきらめない気持ちは強いはずだから。
07/11/11
ミロのビーナス
学習するときの大事な要素のひとつに,好奇心を持つということが挙げられます。物事に関心を持つことにより,そのことに考えがおよんだり,想像することが出来るのです。学者であろうが,小学生や中学生でも,なぜそうなるのか,こうしたらどんなことが起こるのだろうか,研究対象に興味を持つことは大切なことです。さらに想像する持続力があれば,やがて自分なりの答えを見つけ出す結果になることでしょう。考え続けることは,言葉として表現するのは簡単ですが,実行するのはなかなか難しいでしょう。決められた時間だけ調べたり,学習するだけでは成し得ないこともあります。ある研究者は,バスに乗るとき,ステップに足をかけた瞬間にひらめき,そのまま研究室に戻ったという逸話もあります。それは,考え続けるということを怠らなかったからこそあり得たのでしょう。
持続する以外にも,想像する力も大事です。今の世の中,何でもすぐに結果を求めてしまう傾向があります。双方向によるテレビや,インターネットやケータイサイトにおける検索機能など,欲しい情報がすぐに手に入るようになりました。確かに便利なのですが,答えを安易に得られる分,そこに至るまでのプロセスが短くなってしまうきらいがあります。便利な反面,想像力を養う機会を失っているように思えます。ある映画で,主人公の女の子がワクワクしている気持ちを「プレゼントの箱を開ける前の気持ち」に例えていました。箱を開けるまでに,そこに何が入っているのか,プレゼントをしてくれた人はどんな思いでプレゼントを選び自分に思いを馳せてくれたのか,そんなことを想像するとワクワクした気持ちが抑えられなくなったのでしょう。
想像は頭の中で描くものです。実際には見たこともなければ,聞いたこともない物事について,それまでの自分の経験値をもとに推し量って作るものです。ときには現実離れした想像もあるかもしれませんが,一度は極端な仮説を立てることも決して無駄にはならないでしょう。最初からあり得ないとか決めつける心は,新しい発見や創造の妨げにしかならないのですから。人間に与えられた想像する気持ちは,いつまでも大切にしたいものです。
07/10/10
要因と行動
車で道を走っているとき道路工事で渋滞していると,ほとんどのドライバーはイライラするものです。特に,年度末などにはそれほど間隔を置かずして,道路を掘り返している様子が毎年見られます。少し前なら,また税金を無駄に使って工事をしている,と思いながら通り過ぎることが多かったように思えます。ところが,最近では「電話回線の工事をしています」とか,「共同溝の設備をしています」などと,何の工事をしているかを明らかにするようになりました。高速道路の渋滞も,事故なのか自然渋滞なのか,あとどのくらいで抜けられるのかといった情報は,電光掲示板やラジオなどで知ることが出来ます。
電車の遅延などで,しびれを切らした客が駅員に詰め寄る姿がテレビなどで放映されることがあります。実際に,その現場を目の当たりにした経験を持つ人も居るでしょう。あるいは,詰め寄った当事者になることだって考えられます。その怒りは,遅れたことに対する不満もあるでしょうが,なぜ遅れが出たのか,いつになったら動き出すのかといった情報を,待たされている人達に伝えないために生じるのでしょう。人は不測の状況に置かれたとき,その原因を知りそれに応じて対策を講じることが出来ます。けれども,原因が判らないと次の行動に移すことが難しくなります。
昔,医者から貰う薬は,ほとんどその薬が何かを教えられずに貰っていました。医者に言われるとおりにしていれば快方に向かうだろと考えていました。ところが,必ずしもそうでない事態が出はじめました。仮にそういった事態が出なかったとしても,やはり自分が飲んでいる薬は体のどの部分に効くのか,そしてどんな効用があるのかを知りたがるのは自然なことでしょう。病気の状態に応じて,どのような治療を行うのか,医者から説明を受けるインフォームドコンセントなども同じ性質のものでしょう。でも,インフォームドコンセントも昔からあったわけではありません。患者の不安を取り除くためにも,必要なものだったのです。
ものごとには全て理由があって起こるものです。その要因となるものが分からずに行動を取るよりは,あるいは取らされるよりは,なぜ自分がそうしているのか,あるいはそうせざるを得ないのかを納得した上での方が,自ずと目的意識も高くなります。勉強にしてもそうです。やらされている勉強,ノルマ的な学習の姿勢では身に付きにくいのは火を見るよりも明らかです。こども達に学びを教えるとき,こういった姿勢は教え側がしっかり認識していなければならないのです。
07/09/09
夏休みの宿題
小学生から高校生までの間,夏休みは誰もが楽しみに待つもののひとつでしょう。すぐに終わってしまう春休みや,年末年始の忙しさに追われるような慌ただしい冬休みと比べると,家族で旅行に出かけたり,お盆に父母の田舎に帰省したりできます。花火大会やさまざまなイベント,部活動をしていれば合宿もあったります。一夏過ぎると急にたくましく見える男の子もいます。夏休みはこどもたちが成長を果たせる時期でもあるのです。
夏休みのには必ず学校から「夏休みの宿題」が出されます。小学生ならば絵日記や工作,漢字や計算ドリル,昆虫採集や読書感想文などが定番でしょうか。8月31日には必死になって最後の追い込みをすることもあるでしょう。実際に,学校で宿題を出さないと,ほとんどのこどもたちは,長い夏休みに自ら積極的に勉強をすることはないでしょう。そういった側面から見ると,夏休みの宿題は大切なものだと思います。ただ,中学校や高校では,科目ごとに先生が異なるため,宿題が過多になる傾向があるようです。先生方としては「このくらいはやれるだろ,これだけはやって欲しい」といった思いからか,あれもこれも出すようです。すべての宿題を一覧してみると,もしかするとふだん学校に行っているよりも毎日多くの時間勉強しなければならないのかもしれない,と思えることもあります。結果,すべてをやりきれないこどもは,単に答えだけ写したり,友達と分担したりしてこなしたりもします。読書感想文などは読まずに,インターネットの書評だけをうまくつなぎ合わせて終わらせてしまうこどももいます。有用な道具の誤った使い方の典型的な一例でしょう。それでもまだ自分でやろうという気持ちがあればいいのです。
ところが最近は,宿題をお金を出してやって貰うことがあるようです。学校の宿題を大学生や家庭教師が代行するのです。親が頼むことがほとんどでしょうが,中にはこども自身が出費して頼むケースもあるようです。自分のための勉強をわざわざ出金してまで頼むのは非常に愚かな行為ですし,あまり行儀の良いことではありません。でも何よりもこどもにとってマイナスになるのは,お金を出せば何でも買える,といった精神を植え付けてしまうことでしょう。こういった事実をふまえた上で,宿題を出す側の先生方にも工夫が必要になります。モラルの問題なので難しい注文かもしれませんが,親子一緒の体験型の宿題を出すとか,中高生なら小学校の先生を訪ね話を聞くなどするのも良いでしょう。動植物を育てる過程を毎日記録に残すなどはいかがでしょうか。
07/08/08
地球温暖化
夏休み中の八月は,日本中のほとんどすべての地域で最も暑い時期を迎えます。東京の日ごとの平均気温を調べてみると,八月の上旬が暑さのピークで,過去30年の平均最高気温は31.2℃となっています。逆に平均最低気温は二月上旬にあり,ほぼ半年ずれているあたりは,日本の四季がはっきりしていることの表れでしょうか。ところで,平均最高気温はどのように感じるでしょうか。おそらく,ここ数年の最高気温を思い浮かべればむしろ「涼しい」と感じるかもしれません。それだけ,急激に気温が上昇しているのでしょう。地球温暖化はもはや,誰もが感じる現象だと思います。
高温多湿の日本には古来から,夏を涼しく過ごす知恵があります。打ち水やすだれ・よしずはその最たるものでしょう。風鈴の音で涼を求めることもあります。浴衣を着たり,そうめんのつゆに茗荷や生姜を入れ,食欲を増して体力を保ったり回復することも,暑さをしのぐひとつの方法です。五感を駆使し,衣食住のあらゆる方向から涼を求めているのです。これらのどれも,いわゆる地球に優しい行いと言えるでしょう。
肥沃だった大地の干ばつや砂漠化,多発する台風とそれによる土砂災害。珊瑚の死。異常なくらいの熱波に襲われるヨーロッパ。政治レベルでは京都議定書によって排出する二酸化炭素などの温室ガスの排出量を抑えるよう謳われています。国によってその実現が困難だったり,あるいは従おうとしなかったりしているようです。ただ,そういった国家レベルのことよりも,各個人が何ができるのかを考えることが当たり前の時代になりました。けれども,これからを生きていくこども達に地球環境に対する意識の個人差があることは確かです。「個人でできることには限界があるし,それに自分一人がやってもほとんど何の意味もない」そう思うこどもがいることは事実です。でも,一人ひとりの行為がやがて大きな効果をもたらすのではないでしょうか。世界人口が66億人を超えたいま,その半分とは言いませんが,10分の1の人間だけでも意識を高く持つことがやがて大きな意味をなすことをこども達に教えることは,やはり大人達の責務だと思います。
07/07/07
心中という殺人
「物は言いよう」という言葉があります。言い方次第では善に捉えることも出来れば,物議を醸し出すこともあります。知人同士では仲違いになったり,あるいは仕事などでは交渉が決裂することさえあるでしょう。言葉による誤解や行き違いは,誰しも経験することです。「語弊」という言葉もあります。言葉を適切に使わず,弊害が生じると言う意味です。何かのインタビューや会見の時に,適した言葉が見つからないと,「語弊があるかもしれませんが」と言い訳しながら話すケースを目にすることがあります。
けれども,最近こういった言葉の行き違いでは許されない事件が多いように感じます。それは親が子を殺(あや)めてしまうという事件です。いまに始まったことではなく,歴史的に見ても肉親同士の殺し合いというものは存在しました。でも,いまの時代のものとは性質が異なるように思います。どんなことがあっても最後に親はこどもの見方である,と言う考え方は不確かな時代になったのでしょうか。ヒトであれ他の動物であれ,生き物は自分の子孫を残そうとするDNAが備わっているはずです。そのシステムが,ことヒトに関しては障害が出始めているように感じます。それはほんの一部で起こったことだと言ってしまえばそれまでのことかも知れませんが,動植物の進化は気の遠くなるような長い時間を掛けて少しずつ変化していくものです。いまの時代の状況を見ていると,何か警鐘を鳴らされているような気さえします。
親がこどもを道連れにして死ぬことを,報道では「無理心中」と言います。でも,無理心中という言葉は,子殺しをした親主体の勝手な言い訳の言葉で,こどもの側でみると,単なる大人のエゴによる殺人に等しいでしょう。「無理心中」という言葉が,こどもを殺してしまうという「殺人」を擁護していると捉える大人がいる限り,「無理心中」という悲劇はくり返されてしまうでしょう。過去にも,それまでに使われてきた言葉を破棄し,改善された事実はあります。「無理心中」という言葉にはその必要性をひしひしと感じます。
07/06/06
モノを作る
家を建てるとき,その家にあった柱や棚など,大工は木材に墨を入れ寸法を測り切ります。街の鉄工所では,既存のネジやボルトでは部品に合わない場合,ネジを切ったり新しいボルトを作ったりします。新しいモノを作るときに,既製のモノで間に合うことが無いのは良くあることです。目覚まし時計は昔,鳴ったあとに止めてしまうとその後鳴らなくなりました。その結果,結局は寝坊してしまうという事態に陥る人が居ました。今では改良され,いわゆるスヌーズ機能が付き,しつこいくらい何度も何度もアラームを鳴らすようになりました。消費者の声に応えるように,商品が変化していった良い例でしょう。
その昔「パソコンも ソフトが無ければ ただの箱」といった川柳が詠まれました。もっともな話です。今も昔もソフトは日々開発されています。日本語変換のソフトは,十年前と比べると雲泥の差があるのは,ワープロを使っている人なら誰でも感じることでしょう。パソコンだけでなく,ケータイでメールを打つときの日本語変換など,最近は誤変換が少なくなってきたことでしょう。誤変換で笑える回数が徐々に減っているのではないでしょうか。どんどん改善されているのです。企業が作る有料のソフトはたくさん出てますが,その一方で便利なツールとして使えるフリーソフトがインターネットで簡単に手に入る時代になりました。自作のソフトを世に知らしめたいという気持ちもあるのでしょうが,それ以上にたくさんの人達がそれを必要としているからこそ作られるのでしょう。
勉強においてもそれぞれが自分なりの工夫をしながら新しいモノを作ることもあります。年号や地名,化学式など語呂合わせで覚えるのもその一つです。先生に教わったり,参考書や問題集の解説を頼りに勉強をするのも大事なことです。けれども,自分なりに工夫をすることも大切です。どういったことを学び,吸収するのかを考えたとき,それにあったモノを新たに作ることもひとつの学習となります。
07/05/05
特待生制度
高校野球における,いわゆる特待生制度がここへ来て急激に取り沙汰され始めました。高校野球ファンならずとも,春や夏の甲子園大会を風物詩のように見てきたわれわれ日本人にとって,『今さら何を言っているんだ』と感じた人が大多数だと思います。特待生制度がいけないものだったのか,と初めて知った人も多いのではないでしょうか。毎年のように優勝候補となる限定されたそれぞれの地方に存在する古豪・常連校は,それぞれの地域でよく知られていることでしょう。だからこそ,都立高校や町立高校など,公立校が甲子園大会に出場すると話題になり,対戦する高校はどちらかというと‘敵役’になってしまうことさえあります。私学にしても,部員数が少なかったり,野球をする環境が悪い条件でも出場するとメディアでは取り上げたりします。こうした現状を,長年 - おそらく少なくともここ30年来 - 見逃してきた日本高等学校野球連盟の怠慢は,外部の手を借りるなどして正していくべきことでしょう。
高校野球ばかりがなぜ,もてはやされるのでしょうか。学校の部活の一環でしかないものが,地方のテレビ局では予選を何試合も中継し,決勝ともなるとNHKも生中継します。甲子園大会となると,教育テレビまで使って,ほとんど絶え間なく放映します。定刻を過ぎれば後の番組を変更してでも中継します。当然,他のスポーツにそのような待遇は取りません。録画であったり,結果だけでも知らせてくれればいい方で,中にはその存在さえも扱われない部活だってあります。ただ,日本における野球文化は,他の競技と比べても深く浸透していることは確かなことでしょう。けれども,こういった過熱している状況が,今回の問題発生の一因であることは言えるでしょう。
それにしても,もっとも気に掛かること,それは一番の当事者である高校球児のことです。今回の件でどういう訳か真っ先に処分を下されたのは,特待生制度を受けていた球児達です。突然の出場停止処分や,今後の学校生活に関わるような高圧的な高野連の処分に,どうすればいいのか困惑しているのではないでしょうか。教育の一環としての高校野球が,「大きな組織にはしたがいなさい」と言わんばかりの今回の措置に,球児の中には絶望感を抱いている生徒も居ることでしょう。比較するべきではないかもしれませんが,犯罪を起こしてしまった人でさえも,猶予期間を設けることはふつうに行われます。出場停止期間が設けられているようですが,今回の措置で就学困難な生徒はどうすればいいのでしょうか。大人としてもっとこどもたちにもはっきり分かりやすい言葉で,自分たちの非をまず認め,自ら厳しい処分を律し,説明する義務があるはずです。
07/04/04
アクセスの仕方
指導要領は10年に一度程度で改訂されます。改訂とともに,教科書も新しく作られます。最近は改訂のたびに,社会科の歴史に関すうる表記で議論が出ています。ただ,全体的に見れば大きな変化はこれらの科目には見られることはありません。改訂のたびに,以前と比較して内容に大きな変化が出るのは数学や理科でしょう。それまでに高校一年で学んでいたことが,高校二年の教科書に移動されたり,あるいは削除されることもあります。単元の並びも教科書によって微妙に異なり,学校では数学や物理などでは教科書の順番に取り上げないこともあり,生徒にとってはどのように感じるのでしょうか。高校二年で通常は使う教科書を,部分的に一年生で使うことさえあるのですから。これは,教える側の都合で,その方が生徒に理解させやすいと判断するからでしょう。ほとんどの先生がおそらく,自分が教わったときの順番が教えやすさを感じるのでしょう。確かに,昔の配列の方がいいように感じることもあります。現場のそんな対応にもかかわらず,なぜかここ二回の指導要領の改訂では以前に戻す気配は見られません。
そんな現実ですが,配列を変えるにはそれなりの根拠があってのことでしょう。それゆえ,いまの配列のままで教えている先生もいます。数学は必ずしもすべてが教科書の順番に学ばないと理解が困難になるというものではありません。高校数学の代表的な単元に微分積分あります。微積分と略されることもあります。単元の名前の通り,微分積分は微分を学んでから積分を勉強します。ところが,積分を教えてから微分を教える方法もあります。微分積分を勉強したことのある人にはちょっと意外かもしれません。割り算を先に勉強し,その後に掛け算をするようなものなのですから。けれども,もののとらえ方は一方からだけでは無いといういい例でしょう。
このことは何も数学だけに言えることではなく,他の教科もしくは仕事やふだんの生活でも言えることではないでしょうか。既成概念で常にひとつの方法にこだわるのではなく,新たなアクセスの仕方を考えると新たな発見があるはずです。できない理由を考えるよりも,どう工夫すれば達成が可能になるのか考える方が,何事にも前向きになれるでしょう。
07/03/03
マナーと負の文化
少し前に比べると,電車内において携帯電話で通話する人は減りました。嫌煙活動が活発なせいか,街中で喫煙する人の姿もかなり少なくなりました。歩きたばこは携帯電話よりも『歴史』が古かったため,徹底するまでには少し時間が掛かった感があります。携帯電話の文化はまだそれほど使われてきた時間が長くなかったため,比較的穏やかにマナーが守られつつあるようです。交通量の少ない交差点では,信号を守らずに横断歩道を渡る人が居ます。昼よりも夜の方が多くなるのも特徴です。まわりの人の目が気にかかるのでしょうか。あるいは,暗いことによる匿名性の度合いが増すためかもしれません。
車中の携帯電話も,路上での喫煙もどちらもマナーに関することです。信号無視は本来違反であるのですが,どちらかというと道徳に関する問題でしょう。法律によって罰せられるという意味では,良心的な心を持つ運転者は,まず信号を無視することはありません。マナーとか道徳心といった言葉では片付けられなくなるからです。時に,人の命に関わることもあるのですから,守られて当然のことでしょう。
法律で罰せられることは,ほとんどの場合守られます。けれども,各人の道徳心に訴えるマナーは破られることがあります。そのひとつに,こどもの給食費を払わない親が増えてきたという問題があります。学校給食法の目標には「学校生活を豊かにし,明るい社交性を養うこと」や「食生活の合理化,栄養の改善及び健康の増進を図ること」が掲げられています。そこには,給食費用に関することは記されていません。生活に困っていないであろう親が,給食費を払わないという根底には,守らなくても罰せられないという心がどこかにはたらいているのでしょう。こうした親が批判されるのは当然のことです。でも,親の給食費の不払いを見ているこどもは,どのように自分の親を捉えるのでしょうか。こどもの頃に虐待を受けたことのある親は,自分のこどもにも同様のことをしてしまう傾向があるという報告があります。給食費でも負の連鎖が起こる可能性があります。こどもは親の背中を見て育つものですから,いけないことはいけないと認め,負の文化が育たないうちに修復することが大事です。
07/02/02
連続記録
スポーツ競技には,さまざまな記録があります。プロ野球なら毎年終盤になると,本塁打の数や投手の防御率などがスポーツ新聞を賑わします。マラソンや100メートル走などは,将来的にどこまで記録が伸びるか,科学的に検証している研究者もいるようです。誰が一番速く走れるか,ハンマーを遠くまで投げられるのは誰か,一番高く跳べるのは誰か。確かに気に掛かることでしょう。こうした記録は,持って生まれた体もさることながら,普段の摂生や練習の賜でしょう。「記録は破られるためにある」とよく言われます。この記録は絶対破られないだろう,と思われる記録も,いつかは塗り替えられることがあるかもしれないのです。
記録は狙って更新できるものもあれば,日々の積み重ねによって達成できるものもあります。連続記録はその両方の要素を含んでいる記録の一つです。連勝記録を伸ばし不敗神話を作り上げるレスリング選手が居ます。ボクシングでは稀に,一度も負けたことがないまま引退するチャンピオンも居ます。連続記録はそれが一度途絶えてしまうと,それでおしまいです。積み重ねてきたものがどんなものであっても,それ以上の更新は出来なくなります。
無事これ名馬ということわざがあります。試合に一日たりとも休まず出続けることに価値観をもつ選手が居ます。チームのためであり,見に来るお客さんのために出続けます。連続試合出場は,もちろんその選手の成績が伴わなければ達成は不可能でしょう。ただ,実力もさることながら,自らの体調管理も重要になります。不幸にして試合で怪我をしても出続けることもあります。連続試合出場を続けているプロ野球選手が,怪我を押して試合に出続けたことがありました。そのことに対するテレビのインタビューで,次のように答えていました。“怪我を理由に休んでしまうと,次に怪我をしたときにまたそれを言い訳に休んでしまう。逆に,怪我を押して試合に出続ければ,次に怪我をしたときに,それが以前より軽い怪我ならば,休む言い訳は出来ない”と。私たちの普段の生活においても,同じようなことが言えるのではないでしょうか。少しくらい体調が悪いからといってすぐに休んでしまったり,一度決めたことを「忙しいから今日はいいや」などと言い訳しながら休んでしまっていないでしょうか。休むための言い訳をするよりは,続けるための強い意志を持つ方が,達成できたときの喜びは大きくなるはずです。
07/01/01
一眼レフカメラ
一眼レフカメラは,ファインダーを通して直接被写体を見ます。写真を撮るときに,被写体が人ならばその人の表情を見ながら撮ります。それが風景ならば,誰かとその感動を共有したいという思いが,シャッターを切らせるのでしょう。カメラの構造上,レンズの前に障害物があればすぐに分かります。一昔前の廉価な二眼レフが全盛を極めた頃にあった,レンズに蓋をしたまま撮ってしまうようなミスはないのです。被写体にレンズを向け,ピントを合わせ焦点を絞ります。こういった作業が,自分自身にしか撮れない写真を作り上げていくのです。
直接被写体を見るという点では,デジタルカメラも一眼レフの範疇に入ります。けれども,メモリーの容量に任せ,撮れるだけ撮ってから切り捨ててしまうデジタルカメラと,フィルムに記録していく一眼レフカメラには大きな違いあります。ファインダーから直接被写体を覗くことと,ほんの小さな液晶の画面を見るのとでは,出来上がる写真には違いが現れることでしょう。デジタルカメラの液晶の画面では,そこに映っている被写体の表情まで見ることは困難でしょう。だからこそ,人物を撮るときなどは,カメラ本体の撮る人をサポートする機能に頼らざるを得ないのでしょう。一眼レフのファインダー越しで直接見る被写体には,そこには確かに撮る人にしか見ることのできない表情があるのです。
こどもの成長や,家族の肖像を残すのに最も多く使われるのはやはり写真でしょう。ビデオカメラが比較的容易に手に入れやすくなったいまでも,記録として残す方法として,カメラが一番に挙げられるでしょう。写真はアルバムに残してさえあれば,あるいは大事な写真はカードケースに入れて持ち歩いたり,フォトフレームに入れ机の上に置いておけば,いつでも撮ったその時に戻れるのですから。見るために何の道具を要さない写真は,どんなにビデオカメラやパソコンが発展を遂げても,決して消えることのないでしょう。カメラという記録を残す道具は,今後どの時代にも使われ続けることでしょう。