12/12 相対性理論的時間考察 11/11 メッセージ 10/10 メンテナンス 09/09 公理と冥王星 08/08 地球との共存 07/07 起承転結 06/06 大学受験ラジオ講座 05/05 教育実習 04/04 左回り 03/03 色のもつイメージ 02/02 ネットと教育 01/01 夜の虹

06/12/12
相対性理論的時間考察

年の瀬を迎える頃は,月日の経つのが速いものだと感じるものです。カレンダーをめくるたびに,残り少ない今年を思いました。新しい月になったところで,すぐに中旬を迎え,やがて次の月になることを何度も繰り返しています。この手のことは,昔は大人が感じて言葉にしたものでしたが,最近はこどもの口からも同じような台詞が聞かれます。時間経過の速さの感じ方は,人の年齢に比例する,とどこかで聞いたことがあります。すなわち,32歳の大人は16歳の高校生の二倍の速さで月日が経つのを感じるということです。この命題の真偽は怪しいものですが,各個々人でこどもの頃の方がゆっくり時間が過ぎたと感じる人は多いのではないでしょうか。小学生の頃,何をして40日間もある夏休みを過ごしたのか,顧みても大人になるとその記憶は曖昧になってしまいます。

その一方で,一日を長く感じることがあります。特に忙しい日が続くと,昨日のことはおろか,その日の朝に有ったことさえも,ずいぶん前のことに感じることがあります。一日の始まりにあったことが,昨日あるいはもっと前のことのように感じて,ちょっとだけ記憶の不確かさに不安を感じるのです。アルバート・アインシュタインの相対性理論は,発表当時その難解さゆえ,専門家でさえも理解するのに苦労したようです。現代では,物理学的な専門知識をあまり必要としない,初心者向けの解説本が出ています。その中では,時間について次のような説明があります。「楽しいときの時間は短く感じ,つまらない時間や辛い時間は長く感じます」と。同じ一時間でも,気の置けない友達と過ごすときはあっという間に過ぎ,先生や上司のお説教を聞く時間は長く感じるということです。一般相対性理論では,重力によって時間の流れが遅くなると説明されていて,そのひとつの例えとしてよくこんなことが言われるのです。

この理論を適用すると,月日が速く過ぎ去ると感じるときは楽しいときで,忙しい毎日は辛い時間となります。短時間ならともかく,長い月日をずっと楽しく過ごすことはほとんど不可能なことでしょう。もちろん,楽しい時間もあれば大変な思いをして過ごす時間もあるはずです。むしろ,忙しい時間を過ごす方が充実し,時間経過は速く感じても不思議ではありません。では,なぜ月日が過ぎるのが速く感じるのでしょうか。相対性理論に矛盾があるのでしょうか。そうではありません。先ほどの例えは,あくまでも“例え”であって,本来の相対性理論を説明しているものでは無いからです。あくまでも,難しい物理学の知識がない人にも,解りやすく説明しているのです。いずれにせよ,時間の感じ方はヒトにより異なり,また同じ人であってもその時の身体的・心理的な要素によって時計が違ってくるのでしょう。次元のひとつである時間も,それを決める要素はさらにいくつもの要素をもちながら,過ぎていくものなのかもしれません。相対性理論によれば,ブラックホールのような非常に重力の強い場所では,時間は限りなくゆっくり進みます。

06/11/11
メッセージ

学校の部活や小さな組織・会社にしても,三人集まれば派閥ができるといいます。二人までならお互い協力したり,敬遠しあったりすることによりバランスがとれます。ところが三人になると,二人と一人に分かれてしまう可能性があるのです。一人よりも二人の方が強いのが一般的でしょう。いわゆる数の論理です。それでも,一人が強い意志と自分の信念を持っていれば,それほど大きくバランスを崩すことはないでしょう。でも,もしもこれが小学校や中学校,あるいは高校でのクラスで,たった一人だけが疎外された場合はどうでしょうか。正義も信念も揺るがされることは間違いないでしょう。同じような状況があった場合,大人でさえも自分を保つことは難しいことだと思います。人は,誰か自分のことを見てくれる,思ってくれている,そういったことを必要とするのです。人格も人間関係もまだまだ未完成のこどもにとってはそれは重要なことでしょう。

「いじめ」は漢字で書くと「虐め」もしくは「苛め」です。これらの漢字から,どんなことばが想像できるでしょうか。「いじめ」や「イジメ」と記すものとはニュアンスが違ってくるでしょう。いかなる言い訳もできないほど,いじめはする側が絶対的に悪です。悪と解っていながらも,やめられなかったり,それを止めることができないことがこどもの社会にはあります。自分のこどもがいじめにあっているとを少しでも感じている親御さんが居るのなら守ってあげてください。真剣にこどものことを守ることができる最たる人間は親だからです。

一番の親不孝は,こどもが親より先に死ぬことでしょう。いじめから逃れることは,こども一人の力では困難極まりないことです。もし,いまいじめにあっているとしたら,そこに一人でも信頼のできる大人が居るのならその人に話をすることです。相談ではなく,話だけでも聞いてもらってください。信頼できる大人が居ないのなら,「恨み帳」をつけるのです。ノートに記してもいいし,ネット環境があるのなら,ブログで思い切り語ってもいいです。それに対する誹謗中傷はあるでしょうが,同じ境遇の人や同じ考えの人が必ず現れることでしょう。その人達に向けて語ってください。「恨み帳」も書けない,ブログもできない,そういった人はひたすら外に出ないことです。行動することで大人達にSOSを出すのです。両親や学校の先生,心ある大人の誰かが気づいてくれるはずです。決して自らの終わりをつくらないでください。親不孝はもっと先になってからしてください。

06/10/10
メンテナンス

人は自分の体に不調を感じると,その度合いにより医者にかかります。問診や触診,あるいはしっかり検査をし,それに応じて医者が処方箋を出したり,治療を施します。自分の体だけに,ちょっとしたことでも気掛かりになることでしょう。それと比べて,モノに対するメンテナンスはどうでしょうか。個人差があるのは当然でしょうが,いまの時代少し型が古くなると買い換えてしまうケースが多いのではないでしょうか。実際に,修理するよりは新しく買ってしまった方が安く済むこともあります。仮に,買い換えの方が幾分高くても,修理せずに新しいモノを求めてしまうことがあります。商品のサイクルが短くなったように感じます。

屋根や手すりにペンキを塗るのは,見た目を良くすることもありますが,風雨から守る効果が大きいのです。革靴を磨くことも同様のことが言えます。もともとは生きものである皮は,人間がかく汗や雨などで疲弊します。そのまま放置すれば皮は傷み,ひび割れが出来てしまいます。靴についたほこりを落とし,クリームで栄養を与えるとこにより,長く履くことが出来るのです。実際,ペンキ塗りも靴磨きも,地味で丹念のいる作業ですが,長い目で見ればこういった作業は,モノを上手に長持ちさせるというメリットがあります。さらに,それらのモノに対する愛着が湧き,モノを大事にするという心が養われることでしょう。

その昔,江戸の町はゴミを出すことが少ない,モノを循環して使う理想的な町でした。生ゴミは農作物の肥料として使われました。そこから出る熱を利用した,いわゆる一種のハウス栽培に近いものがあったようです。鋳掛け屋という商売もありました。これは,鍋や釜など金属で出来ているモノに穴が空いたときに修繕する職業です。こうした知恵やものを大事にしようという心が,昔の人たちにはあったようです。使い慣れたモノが不調を訴えたとき,一度でいいのでそれが自分自身の体だと思い,いたわってみるのも大切なことだと思います。

06/09/09
公理と冥王星

数学には「公理」ということばがあります。『a=bならばa+c=b+cである』とか,ユークリッド原論で有名な『2つの点が与えられたとき,その2点を通るような直線を引くことができる』があります。あるいは『どんな自然数に対しても,その数の次の自然数が存在する』も公理です。定理は数学的論理によって証明されることで,たとえば『平面における三角形の内角の和は180度である』などがその例です。この証明は,中学生程度の数学の知識があれば簡単に証明できます。ところが,公理を証明しようとすると無理が生じます。そもそも,公理は証明するものではなく,それが成り立つ命題である,ということから出発します。定義とは意味が異なります。ただ,公理にせよ,証明された定理にせよ,一度‘認められた’ならば,そのことが覆されることは決してありません。

天文学者であるニコラウス・コペルニクスが,地動説を唱えた時代は,測量や観測の技術がそれほど発達してなかったため,彼の説が当時としてはまったく認められなかった話は有名です。その後,誰もが知っている科学者,ガリレオ・ガリレイが地動説が正しいという有力ないくつもの事実を発見しました。しかしながら,当時のローマ教皇庁は,コペルニクス説を禁ずる布告を発令し,地動説を唱えたガリレイは異端審問所に呼び出されました。地動説を唱えることを許されなかったのです。いわゆる「ガリレオ裁判」です。結局,ガリレオは正しいはずの地動説を捨てるしかなかったのです。数学と異なり,数学を除くすべての科学分野では,以前正しかったことが,実は間違いであった,ということがたびたび起こります。

1930年にアメリカの天文学者が発見した冥王星が,このたび惑星から矮惑星へと‘格下げ’されることが先月決まりました。惑星の定義の一つである,「その軌道周辺で他の天体を一掃してしまっているもの」すなわち,一つの軌道上で圧倒的に大きな天体でなければ惑星として認められないということです。冥王星が発見された時代は,今ほど望遠鏡の精度は良くなかったようで,もっと大きな天体と思われたようです。しかしながら,実際は地球の月よりも小さかったのです。こどもの頃から語呂合わせで覚え慣れ親しんだ冥王星が惑星から除外されることに反対する人や,惜しむ声も聞かれます。けれども,いま現在定義されている惑星に当てはまらないのなら,やはり惑星からは除外すべきでしょう。長い目で見れば,子孫に正しい科学を教えることが大切なのですから。  

06/08/08
地球との共存

日本は四季のはっきりしている国だと,小学生の頃には教わったものでした。春には桜が咲き,いくつもの命が息吹き,夏は輝く太陽の下,こども達は真っ黒に日焼けしたものでした。夏休みのラジオ体操で,いつも学校で会っている友達と顔をあわすのが楽しみでした。夜が長くなり始めると秋を迎え,室内の暖かさが恋しい冬へと続きます。

ところが,地球の温暖化が取りざたされ始めた頃からでしょうか,少し季節の分かれ目がぼやけてきたように感じます。夏の訪れがはやく,そして長く感じるのです。どこまでが春だとか,この日からは夏,などと明確に分けることなど無理なことは承知しています。ただ,連休を迎える頃にはすでに夏日があり,秋の彼岸を迎えてもいっこうに涼しくなる気配が感じられない年もあります。特に,七月から八月に掛けては,首都圏の日々の最高気温が,沖縄のそれを上回ることなど珍しくなくなりました。ヒートアイランド現象は,人為的なことにより引き起こされています。人間がその原因を作っているのです。

けれども人間が地球上で生きていく上で,科学の発展は欠かせないものでしょう。車や電車,飛行機が無くては移動すらままなりません。テレビやラジオ,電話にインターネットなど情報網・通信網が無ければ,いざ災害が起こったときに,情報を得る手段が極めて乏しくなります。エネルギー源にしても,石炭や石油など‘地球の内蔵’をえぐり取りながら,工業は発展を遂げてきました。もはや昔の生活に戻ることなど不可能なことです。人間の勝手な思い上がりかも知れませんが,地球上で生活するためには,地球の環境を考えながら,共存させてもらうことでしょう。個々のできることは小さくても,大人達が可能なことを実践し,これからを生きていくこども達の手本となっていくべきでしょう。  

06/07/07
起承転結

起首と期首。同音異義語ですが,前者は物事の初めを意味し,後者はある期間のことを指します。その期間の終わりが期末です。ほとんどの学校の定期試験に,期末試験があります。それに対して,新学期の初めに行われる試験を期首試験という学校は聞いたことがありません。たいていの場合,学力試験とか,実力テストなどと呼ばれます。この種の試験が行われる四月が,起首であることは学校だけではなく,日本の社会全体の一般的な動きでしょう。四月が起首になるのは,日本の学校制度がその大きな要因だと考えられるでしょう。

承知のことではありますが,日本の学校が四月に始まることと,多くの海外の学校が九月に始まることで,留学するときに時間的なズレが生じることがあります。留学する学生は,むしろこの半年をうまく利用して,語学の勉強に力を入れたり,費用に充てるためにアルバイトに励んだりします。学校が四月に始まるようになった経緯には,明治時代の陸軍や役人の都合によるという説もあります。いまとなっては,桜の頃の入学式というのは,日本全体の風土に馴染んでいるようです。ただ,入学試験が最も気候の厳しい真冬になることは,毎年何らかの問題をはらんでいるのも事実です。九月開始の方が,受験生にとっては優しいでしょう。

転倒しています。『ニワトリが先か,タマゴが先か』的です。官公庁や企業の都合に併せて学校が四月開始になったことが,現在では基準が学校側に移っているようです。「法」という言葉は,規準や規範とする意味を持っています。仏教における「法」は法則や真理を表し,数学では整数を分類するときに「法」という用語を使います。けれども,これらの言葉の使い方とは異なり,人びとの生活における「法」はその時代に併せて変化してきました。

結実するには時間が掛かるのは,必然のことでしょう。仏教にしても数学においても一晩で出来上がったわけではなく,長い時間や時代を経て作りあげられてきました。これらでさえ,終わりがあるわけはなく,いまこのときにも変化しているはずです。いまの時代,結果をすぐに求めてしまう傾向があります。そういったことが望まれる世の中になったのでしょう。もうすぐやって来る夏休み。こんなときこそ,普段出来ない贅沢な時間の使い方をしてみてはいかがでしょうか。

06/06/06
大学受験ラジオ講座

その昔,文化放送やラジオたんぱでは,「大学受験ラジオ講座」が放送されていました。講座の始まる前にはブラームスの「大学祝典序曲」が流れ,毎回30分間の講座が二つ放送されていました。文化放送では,深夜の11時30分が講座の開始時間でした。これから受験生の時間帯が始まる,そんな期待感を抱きつつ放送は始まります。講師は大学の教授や助教授などが多く,予備校で教えていた先生も居ました。講座に熱い先生が多かったと記憶しています。講談調に授業を進める先生や,最後の授業で受験生を応援する意味を込めて唄った先生,毎回英語の歌を題材に挙げて親しみやすい授業をする先生などさまざまでした。ラジオ講座で聞いていた先生が,入学した大学に居て授業を受けたときに,まったく同じ口調だったのは少し懐かしい感じがしました。早口のその先生は,授業の最初に「私は普通の人の1.5倍の速さで喋ります」と言ってから授業を始めました。その教授の授業は印象的でした。授業時に本やノートを持ってこなかったのです。すべての内容が頭に入っていたらしく,授業はどんどん進みました。それだけでもすごいと思ったのですが,ひとつの単元が終わったときにその先生はいきなり『練習問題』と板書し,問題を次から次へと書いていったのです。

江戸時代の生活は,侍も農民・商人もそれほど差がなかったと言われます。陽とともに起き,汚染されていない水を飲み,無農薬の野菜をみんな食べていました。魚も新鮮なものばかりだったことでしょう。夏の暑さは,打ち水やすだれなどでしのぎ,冬の寒さは温かい料理や酒で越しました。さすがに,殿様は少しは良い生活をしていたかも知れません。けれども,いまの時代よりは,生活水準の差は無かったことでしょう。いまの時代は,生活水準もさることながら,情報に関する‘貧富’の差が激しくなりました。

特に通信の発展には目を見はるものがあります。インターネットによる動画配信は当たり前になり,ケータイで動画はおろか,テレビも気楽に見られるようになりました。情報を得ようと思えば,若干の好奇心といくらかの金銭があれば可能となりました。シニカルではなく,恵まれた時代だと思います。けれども,そのあふれんばかりの情報から何を取捨選択すれば良いかの知識や判断能力はまだ,個人に依るところが大きいでしょう。

その昔,テキストを見ながら,ラジオから聞こえてくる講師の声を頼りに,大事なところを聞き逃さないように懸命にノートに鉛筆を走らせたものでした。そのラジオ講座は1994年度に惜しくも終了してしまいました。

06/05/05
教育実習

大学の授業を履修するには,高校までとは異なり,四月中に授業を受けながらどの講座を取るかを決めていきます。高校までのほとんどが与えられたカリキュラムに対して,大学では自ら学びたい授業を選んでいきます。大学のシステムや,文系・理系などの違いにより,卒業までの単位は若干異なりますが,約130単位ほどが必要になります。通常の授業は前後期合わせた年間で四単位,演習形式の授業は二単位,理系に多い実験は一単位です。これらの単位数に,多くの理系の学生は不満をもっているようですが,昔から変化はありません。どこの大学のシラバス等にも書かれていますが,普段の講義には実際の授業時間の三倍の準備をもって望むべきだとあります。最近は,大学間の連携を取り,他大学での履修も可能な大学もできました。

卒業単位に数えられない授業に,教員免許を取るための講座があります。『教育心理法』や『道徳教育の研究』,『国語科教育法』といった教科に関するものなどです。教科に関する単位は,学科によっては必修授業に含まれることもあります。大学によっては,中学校・高等学校のみの教員免許の単位しか取れないところもあり,小学校の先生を志望する学生は,他大学に聴講生などの形で単位を取りに行ったりします。ここまで熱意がある人は,教員志望が強いのでしょう。

小学校・中学校・高等学校あるいはどの教科とかに関係なく,必ず修めなければならないものとして教育実習があります。出身校に実習しに行くことが多いようで,昔教わった先生が担当教官になるケースもこれまた多いようです。塾のアルバイトや家庭教師などの経験がある学生の方が,慣れている分教えるのが上手なのは当然でしょう。中には初めて教壇に立つのに,いきなり立派な授業ができる強者もいます。実習では,指導案を綿密に書き,指導教官に直させられ,実際の授業をします。指導案には時間配分も書くのですが,ほとんど予定通りに進むことなどないでしょう。

実習では教科を教えることも大事だし,授業も含めた生徒の学校生活の動向を見ることも大事です。教案を書いたり,教材準備に深夜まで追われることでしょう。でも,もっと大切なことがあります。もし,本気で将来教師になるつもりならば,自分が一年後,あるいは五年後にいま居る生徒達の前に立って授業をしている自分の姿を想像するといいでしょう。さらに,学校は比較的閉じられた世界で成り立っています。教わっている教官や,一緒に実習をしている学生と,長い期間同じ机を並べずっと仕事をしていくことを実感してください。毎年,各学校では新米教師を採用することでしょう。その中で,一年以内でやめてしまう教師がいるのも確かです。あこがれと現実には必ず差が生じます。自分の教師という職業への思いの強さを知る貴重で僅かな時間を,いつもの何倍も有効に生かして過ごしてください。その思いがあれば,若干の睡眠不足など問題ありません。

06/04/04
左回り

数学の図形問題などで,三角形ABCを描くときには,普通なら頂点を上にして,底辺を下に広げた図を描くものです。平行四辺形なら,左上にAを取り,その下にB,さらに右側にC,その上にDを取っていきます。五角形や八角形になっても同様です。空間図形になるとどうでしょうか。サイコロの形である立方体は,上の面の左辺から順に平行四辺形と同じように点A,B,C,Dを取っていきます。次に,下の面に移り,Aの真下にEを取り,以下順にF,G,Hとなります。いずれの場合も,左回りに点を取っていくのです。これを逆にすると,かなり抵抗のある図になることでしょう。

左回りというと,さまざまな競技で見られます。陸上競技では,トラック競技の400メートル走をはじめとする中長距離走が上げられます。ハンマー投げの回転も左回りです。スケート競技では,スピードスケートも左回りです。今年行われたトリノの冬季オリンピックでは,女子フィギュアスケートが日本中を賑わせました。競技を見ていると,ほとんどの選手が左回りで回転しながらジャンプを演じていました。そんな中,見ていてちょっと違和感を感じた選手もいました。地元イタリアの選手です。イタリアの選手として,メダルに期待が掛かり,それだけに演じる前から声援も大きく目を引きました。演技が始まりやがて彼女はジャンプをしました。すると,素人目に見ても「何かが違う」と感じたのです。彼女のジャンプは右回転でした。それが原因かどうかは判りませんが,期待に応えられない成績で終わったのは事実です。

多くのスポーツ競技が左回りをしているひとつの説には,心臓の位置が関係していると言われます。左側にある心臓を守るように,あるいは心臓による重心の位置に偏りがあることが関係しているのだということです。ただ,ここで不思議に思うことは,左回りは反時計回りということです。時間に逆らった回転の方がヒトにとって‘自然’な回転になるのでしょうか。だとすると,ヒトは時間に逆行する方向に進む運動を好むことになります。ヒトには決して不可能な時間を戻すことに挑んでいるという見方はちょっと行き過ぎでしょうか。  

06/03/03
色のもつイメージ

普段何気なく街中を歩いていると,いくつもの店の入り口は看板や電飾で彩られています。店の顔である看板にはたいていの場合,その店を印象づけるような色が塗られています。看板全面に塗られているというよりは,縁取りに塗られたり,横線が引かれたりすることの方が多いようです。車で見知らぬ町を走っていて,不意にコンビニエンスストアーに寄ろうと思ったときに,そこがどのチェーン店かなど看板を見るまでもなく,店前面の壁に塗られている色で,どこの店かを一瞬で判断できるものです。それだけ色が訴える力は強く人々のイメージの中に埋め込まれているのでしょう。看板ばかりでなく,街中には色があふれています。郵便ポストは赤く,信号は赤・黄・青で構成されています。

サッカーやラグビーの試合では,両チームの選手が入り乱れて戦うため,似た色のジャージ同士の試合ではセカンドジャージを使用します。正規のユニフォームは,当然そのチームのカラーであり象徴でもあるので,自分たちの色のユニフォームで戦いたいのは言うまでもありません。サッカーの日本代表が白いジャージで戦う姿は今ひとつ想像しにくいことでしょう。それだけユニフォームやジャージには思いが強く入り込んでいるのです。ラグビーの大学選手権などでは,四年生最後の試合で自分たちのジャージが着られたことが,勝敗の行方と同等くらいに大事に思う選手が居たことを,中継していたアナウンサーが紹介していました。

カスタネットが青と赤でつくられているのは,一説によれば男の子と女の子が取り合わないようにするためだそうです。男の子は青,女の子は赤を好むのです。また,兄弟姉妹がお下がりで使うとき,兄から妹あるいは姉から弟といった場合に困らなくて済みます。カスタネット同様,ランドセルもほとんどの男の子は黒を,女の子は赤を背負って学校に通います。こうした色のイメージは幼い頃から親によって植え付けられるのでしょう。でも,年を重ねるとともに自分好みの色づかいが決まっていきます。それがやがてその人の個性となり,周りの人達に浸透していくものです。だから,ある日突然違った色合いの服を着て行こうものなら友達から「何かあったの?」などと訊かれる結果になることだってあるでしょう。三月は卒業の時期です。やがて春を迎え新たな出会いもあることでしょう。こんなときこそ,新しい自分を開いてみてはいかがでしょうか。ちょっとした色の変化で,気分だって変わるものです。  

06/02/02
ネットと教育

おにぎり」か「おむすび」か,あるいは「コンピュータ」か「コンピューター」か,「通信簿」か「通知表」かなど,人によってものの呼び方が微妙に異なることがあります。まわりの人にこれらの言葉のどちらを使っているのかを訊くと,同じ学校や職場の中でも結構分かれたりします。そして,ほとんどの人が,自分が使っている言葉の方が正しい,あるいは主流だと主張したりします。長い間,慣れ親しんで使ってきた言葉なので,それは自然なことでしょう。では,これらの言葉はどちらが多く使われているのでしょうか。実際に統計を取ることは難しいですが,今はインターネットの検索エンジンという便利なツールがあります。それが必ずしも正しいというわけではありませんが,ある程度の判断材料になることでしょう。検索エンジンは日々進化をし,オプションでカスタマイズも出来れば,個人使用のパソコン内のハードディスクの検索も可能です。ツールバーを無償でダウンロードも出来,使い切れないほどの充実ぶりが見られます。

ブロードバンド化が進み,今や動画をネット配信しているサイトなど珍しいものではありません。動画配信にはプロモーションビデオのダイジェストや,映画の予告,昔のアニメーションなどが多く見受けられます。中学生や高校生にとって有益なサイトもあります。NASAの公式サイトは,日本語版のものもありますが,主要なコンテンツは本家の英語版にそのほとんどがあります。英語で書かれているので,日本の中高生にはちょっとハードルが高いかも知れませんが,映像でのデータ配信が多くあるので,多少の言葉の壁は越えられるでしょう。英語も一緒に学べると思えば,それも楽しみの一つになります。

塾では生徒が自由に使えるパソコンを設置しています。ただ,彼らの興味の的はかなり偏ったもので,各自の趣味のサイトに行ってしまう傾向があります。ときには掲示板に心ない言葉を連ねてしまったこともありました。程度にもよりますが,常識を越えた範囲での使用には注意を促します。力ずくでアクセス制限することも出来ます。けれども,何もかも禁止してしまっては,新しい世界に出ていく機会を減らしてしまうことになります。‘ダメ’と言う前に,ネットの面白い活用法を示していくのも教育の一つだと考えています。  

06/01/01
夜の虹

常識的にはあり得ないと思えることが,実は可能であることがあります。たとえば,考古学上でその製造法が不明とされるものがそうです。ナスカの地上絵や,コスタリカの石球などが有名です。Out Of Place Artifacts=場違いな出土工芸品 は略されてオーパーツと言われます。作成された当時の文明の技術では製造が不可能と考えられるものが,実際に作られていたのです。科学的な分析が進み,長い年月を掛ければ可能であると推測されたオーパーツもありました。あるいは,誤認であった出土品もあったようです。真偽のほどはともかく,はるか昔にさまざまな工夫が見られたことは確かです。出来ないとあきらめてしまうよりも,どうすれば問題解決の道筋が見えるのかと考えた方が前向きなのは言うまでもありません。

ブラジル・アルゼンチン・パラグアイの三か国にまたがるイグアスの滝は,滝幅が4kmにもおよぶ,世界最大級の滝です。滝壺付近では,休むことなく水しぶきが立ち上っています。晴れている昼間は当然,きれいな虹が架かるようです。滝の規模もさることながら,虹の大きさも壮大なものになるようです。虹は人工的にも簡単にできます。夏の暑い日に,水まきをするホースから出る水しぶきと共に,小さな虹を作った経験は誰にでもあることでしょう。虹には水蒸気もしくは水しぶきと太陽の光が無いと出来ないと思い込んでいませんでしょうか。ところが,夜にも虹が出来ることがあるのです。イグアスの滝では,月に一度,満月の夜に虹を見ることが可能なのです。満月による光は,確かに太陽のそれよりは弱々しいものですが,地球に届く二番目に強い光と,世界最大級の滝によって,常識的には見ることができないであろうと思われる夜の月が可能になるのです。

一つの目標に向かって進んでいるとき,ある時自分の限界を感じることが無いでしょうか。自分には無理なことだと,そこであきらめてしまうのです。でも,そこで新たな工夫や方法を考えたり,発想の転換をしてみることが,不可能と思われることが可能に出来る瞬間になるのでしょう。オーパーツを作った人々も,そこに達するまでには何度も試行錯誤したり,幾度となく完成が危ぶまれたことでしょう。でも,そこであきらめなかったからこそいま現在存在しているのです。あり得ないと思われている夜の虹も,目の前で見られたならば,その感動は計り知れないものになるでしょう。