12/12 歴史は繰り返されるか 11/11 祝日法改正 10/10 地球カレンダー 09/09 ボーダー 08/08 数の拡張 07/07 さくいん 06/06 居心地の良い空間 05/05 夢の途中 04/04 鉄腕アトム 03/03 はじめが肝心 02/02 外来語と言葉の変化 01/01 絶対音感

03/12/12
歴史は繰り返されるか

日本史にせよ世界史にせよ,歴史は小学校から高等学校まで,場合によっては大学以降でも学びます。歴史を学ぶ大切さの一つには,過去に起こった事実をもとに,同じ過ちを繰り返さないようにする,ということがあります。多くの過ちを人間はこれまでに犯してきました。戦争や紛争はその最たるものでしょう。勃発してしまったのが,国家間のこともあれば,もっと小さな地域の部族どうしで争われたこともあります。でも,どちらも同じ人間どうしが起こしてしまったことなのです。その結果,戦争とは何の関わりもない人が犠牲になったり,憎んでもいない人を殺してしまうという最悪の事態も起こりました。

今,世界ではこれまでの歴史に残っている争いと似たような新たな紛争が起こっています。それが日本からは遠く離れた地であっても,決して私たち日本人とは縁がないことではありません。自衛隊をイラクへ派遣するということが,報道機関をはじめとして議論百出しています。自衛隊の海外派遣は,これまでに何回も国連平和維持活動(PKO)という,“似た”歴史がありました。イラクへの自衛隊派遣の賛成意見としては,派遣はあくまでも支援のためであり,戦争に参画するのではない,あるいは国際社会の中での日本という国の責務だ,という意見もあります。反対派は,日本の自衛隊としてイラクへ行っても,米英軍と同一視され戦禍に巻き込まれることが十分に考えられる,あるいは唯一の被爆国である日本は,断じて戦争に荷担してはならない,などです。日本が被爆国であるということも,まぎれもない歴史上の事実です。

どれも正しいことを言っているのでしょう。これが個人的なレベルで考えても,同様のことが言えるのではないでしょうか。困っている友達がいれば助けてあげることもあるでしょう。他人の子供が目の前でおぼれかけていたのを目にした,心臓を患っている人が,自分の身の危険を顧みず助けた,というニュースを聞いたこともあります。支援に行く場所が安全でないことなど,誰が考えたって簡単に判ることです。確かに言えることは,そういった事実が今まさに私たちの生きているこの時代に起こっている,新たな歴史に残るということです。戦争を体験した日本人はもはや僅かとなりました。裏返せば,それだけ平和な時代が続いたと言えるでしょう。戦争体験を聞くことにより,人間が犯してしまった愚かしさを,私たちは知ることができます。教科書や書物で学んだり知ることも大切ですが,実際に体験した人から聞くことも欠かせない大事なことです。今起こっている事実は,私たちのほとんどの人は直接体験することではないでしょう。できることならそうあって欲しいものです。けれども,繰り返される愚かな歴史を,同じ時を生きているものとして記憶に刻み込み,さまざまな状況で生活をしている一人ひとりが,自分の考え方で受け止めるべきでしょう。

歴史を学び,同じ過ちをしないようにしても,そこから新たな過ちが生じてしまいます。時が過ぎ,振り返ったときに,今回のことをどう捉え,子供たちに伝えていくべきか,そこに望みをもちたいのです。  

03/11/11
祝日法改正

元服(げんぷく)という儀式が,日本古来にはありました。現在の成人式に相当するものですが,男子が対象で年齢は二十歳ではなく,十二歳から十六歳くらいの間に行われていました。成人の装束を着て髪を結い,冠をかぶる儀式です。冠婚葬祭の『冠』にあたります。「成人の日」はこれに由来し,昭和23年に国民の祝日として,1月15日に制定されました。 明治9年に明治天皇が,灯台監視船『明治丸』による東北地方巡幸を終え,横浜港に帰着された日を記念して制定されたのが「海の日」です。平成8年,現在制定されている中では最も新しい祝日として,7月20日に制定されました。 その昔,聖徳太子が大阪に四天王寺を建立したときの話です。この四天王にあわせて,太子は敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四ヶ院を設置したといわれています。その中の悲田院が現在でいう老人ホームにあたります。この悲田院ができたのが9月15日であったようです。この日に由来して,昭和41年の9月15日に「敬老の日」として,祝日に制定されました。それ以前には,「としよりの日」という名称で制定されていましたが,あまり評判がよくなく,改定されました。なお,「敬老の日」の由来には『養老の滝説』というものもあります。 日本が高度経済成長の兆しを見せ始め,東海道新幹線が開通した年に,東京オリンピックが開催されました。昭和39年の10月のことでした。開会日は10月10日で,この日は晴れの特異日でもあったので,この日に開会式を設けたようです。10月10日は昭和41年に「体育の日」として,祝日に制定されました。

祝日に限ったことではありませんが,毎日のように「~の日」というものが存在します。国民の祝日にはおよばないかもしれませんが,その日に制定したことにはそれぞれの理由が存在するはずです。祝日法改正,いわゆるハッピーマンデー法により,「成人の日」と「体育の日」は平成12年からそれぞれ1月と10月の第二月曜日に,「海の日」と「敬老の日」は平成15年からそれぞれ7月と9月の第三月曜日に移動されました。三連休を増やすことによって,レジャー需要の拡大を計り,経済的効果を目論んだものでした。確かに,目先の効果は出たことでしょう。この改革を検討していた当時の野党のいくつかの党派はすでに存在しなくなり,古い歴史をもって制定された祝日に比べると,何ともはかない寿命だったことでしょう。

経済的効果の観点から見ると,三連休を作ることは当然の流れだと思います。今がそういう世の中とすれば,それも致し方ないことでしょう。けれども,歴史的背景を考えると祝日を移動することは,ちょっと人間の傲慢さを感じます。教育という側面から見ると,これだけ月曜日に祝日を作ることは,長い目で見るとその損失は計り知れないでしょう。学校教育では通常,週を単位として時間割を年間で作成します。したがって,月曜日の授業は年間を通すと,他の曜日よりは少なくなることは容易に予測できます。同じ学校の同じ学年でも,ある一つの科目の授業時間数が,クラスによって差が出ることも当然考えられます。こういった事態の対応策を考えている学校も出てきているようですが,施策していない学校の方が多いようです。学校行事や先生の研修,部活動などの学校運営が困難にしているようです。一度作ってしまった“楽”な動きを元に戻すことはおそらく出来ないことでしょう。現状で出来る範囲の方策を考えていく必要性があります。例えば,学期ごとに時間割を組み替えるというのも一法でしょう。

03/10/10
地球カレンダー

「ヒトの一生もハツカネズミの一生もそれほどその長さに差がない」と言われたら,どのように感じるでしょうか。仮にヒトの平均寿命が八十年とすると,ハツカネズミの平均寿命がおおよそ二年なので四十倍もあります。常識的に考えれば,この差は大きく,やはりヒトの方が長生きができると感じるのが普通でしょう。ただ,それはそれを測るモノサシの基準がヒトにあるからこそ,そう感じるものです。もっと長い時間を基準にすると,ものの見方も違ってきます。

今から46億年前に地球は誕生しました。太陽の第三惑星として生命を育んでいる地球ですが,地球上の生命の歴史は,地球誕生からの長い歴史と比べるとどうなるでしょうか。あまりにも気の遠くなるような,あるいは想像しにくいほど大きな数字が出てくるため,人間の一般常識の範囲では素直に感じ取れないことがあります。地球誕生から現在までの歴史を縮尺した考え方に,「地球カレンダー」というものがあります。46億年前の地球誕生の瞬間を一年の一番最初,1月1日の午前0時ちょうどとします。その後のいくつかの地球で起こったことを,地球カレンダーに当てはめると,以下のようになります。

 1月1日     午前0時                     地球誕生
 2月25日                                      原始生命誕生
 5月23日                                      光合成生物登場
 11月23日                                     魚類出現
 11月29日                                     両生類出現
 12月19日                                     鳥類出現
 12月25日                                     恐竜時代全盛
 12月26日  午後8時17分            恐竜絶滅
 12月31日  午後9時10分             原人登場
                    午後11時43分           人類登場
                    午後11時59分46秒  キリスト誕生
                    午後11時59分59秒  産業革命

さて,どのように感じたでしょうか。人類の登場が一年の一番最後の日,それもあとわずか十数分で年が明けてしまう頃にあります。恐竜が絶滅したのも,地球カレンダーで見るとついこの前のような出来事です。このカレンダーを見て,これほどわずかな時間でヒトは地球環境に多大な影響を及ぼしてしまった,とネガティブに考える人もいれば,文化や産業の発展など,人間の叡智はすばらしい,とポジティブに捉える人もいます。いずれにしても,地球カレンダー的な時間の概念では,ヒトの一生もハツカネズミの一生も,その長さにそれほど差がないことは理解していただけたでしょうか。

でも,地球は12月31日で終わってしまうわけではありません。現実の地球の寿命はあと50億年くらいと言われています。つまり,現在の地球はちょうど折り返し点あたりになります。また新しい年がやってくるのです。ヒトも恐竜と同様にある日突然絶滅してしまうかもしれません。それでも,これから迎える新しい年を作っていけることに喜びを感じながら,ヒトとしての一個体として,短いながらも生命をつなぐほんのひとかけらであれば,意義のあることだと思います

03/09/09
ボーダー

かなり前のことになりますが,テレビドラマで結婚を控えた娘と父親,その娘の結婚相手の青年を交えた物語がありました。昔のことなので,記憶はあいまいになっていますが,あらすじは次の通りだったと思います。娘の結婚相手の青年と父親は同じ職場(警察官だったと思います)で働き,青年は父親の上司でした。娘を嫁に出す父親の気持ちは,二人の結婚にそれほどやぶさかではありませんでした。ただ,結婚をするに際して,仕事とプライベートをどう区別するかということを,父親として青年に問いました。具体的にはこうです。仕事での行動範囲と,プライベートとの境界線をどこに引くかということです。公園を越えたところからは父親であり,婿であって,それを超えたら上司と部下になるのか,と父親は青年に尋ねます。青年はそんなはっきりした境界線など引けるわけがない,と言います。それでも,どこからが警察官として,あるいは義父としての行動をとるべきかと父親は青年に食い下がります。結局二人の考え方は平行線のまま進んで行ってしまいます。

ここ数年で起きてしまった凶悪な少年犯罪。その報道を聞くたびに耳を疑いたくなるようなことが何度もありました。少年犯罪は,今の大人達が子供だった頃にもありました。犯罪白書の統計をみても,少年犯罪はここ数年で極端に増加しているわけではなく,時代によっては今よりも明らかに多かった時期もありました。したがって,今の子供達が昔と比べて荒んでしまったとは言い難いのです。それでもやはり,ここ数年の少年犯罪の凶悪さは,その加速度が増しているように感じます。なぜそう感じるのでしょうか。犯罪を起こしてしまった少年の低年齢化が一因として挙げられます。しかし,これも今に始まったことではありません。では,どこが異なるのでしょうか。それは,マスコミの報道のあり方と,情報化社会によって,たくさんの人たちが簡単に情報を得られるようになったところにあります。よく少年犯罪の原因としてやり玉に挙げられる,ネットやゲームなどは,昭和30年代には無かったものでした。でも,この時代は今よりも少年の凶悪犯罪が多かったのです。もちろん,こういったものが犯罪と関わりがないとは言いません。ただ,一義的な解釈は一方的な情報を押しつけられることと似ているように思われます。

どこかで一線を引く必要性は,さまざまな場面で生じます。ささやかなことに対して引くこともあれば,規則あるいは法律の中ではっきりと引かれこともあります。少年の凶悪犯罪が報道されるに連れ,刑事罰で処分される年齢の見直しが取りざたされます。処罰を刑事罰とするのか,教育刑で処するべきか,どこで一線を引くかの論議は絶えません。16歳がダメなら14歳。さらに低年齢の子供が殺人を起こしたら,また改正を考えるのでしょうか。処罰の程度で犯罪が減らなかったことは,過去の歴史を振り返ると解ることです。被害者の家族にとっての失望感と,犯罪を犯した少年への憎しみ。また,加害者の少年の親やその少年の教育に携わってきた人たち心の傷。これらは間違いなく一生残ってしまうでしょう。少年が犯罪を起こしてしまう,そういった行動には必ず理由があるはずです。不幸にして起きたしまったことに対しては,それをありのままに受け入れることが大事です。その上で,悪いことに対しては罰があり,決して埋めきれないものを,それでも補っていく必要性を諭してあげることが,大人達の義務なのだと思います。

03/08/08
数の拡張

数については,算数や数学を学んでいくと共に,次第に拡張されていきます。1,2,3,…と,ものを数えるときなどに使う自然数は,この自然数という言葉を知らずとも,経験的に誰でも使っているものです。一つのものを三等分に分けるときなどには分数を用います。分数は有理数という数に分類されます。有理数に対して無理数というものもあります。これは分数では表せない数で,ルート(√)で表される数や,円周率 π がそれに相当します。それまでに学んだ数ではどうしても表現できないときに,ヒトは新しい数を考え,拡張してきました。同じ数を掛けあわせて2になる数は,自然数や有理数の範囲ではどうしても表現できませんでした。不可能であることが証明されてしまったのです。そこで考え出されたのが無理数の一つであるルートです。高校数学で教わる対数関数(log)も,それ以前の概念を打ち破る数です。そこに必要性があって,はじめて新たな概念が生まれたのです。小数なども,数の大きさを表すものとしては非常に便利ですが,有理数(分数)や無理数よりは,歴史的にはかなり浅いものがあります。

数の計算で最も基本的なことは四則計算です。すなわち,足し算・引き算・掛け算・割り算の四つの計算法です。四則計算の計算結果が,それらの数の範囲で出ることを“閉じている”といいます。自然数は足し算と掛け算については閉じています。すなわち,自然数どうしの足し算や掛け算の結果は自然数になります。ところが引き算や割り算について,自然数は閉じていません。自然数どうしの引き算や割り算の結果が,自然数にならないことがあるからです。数を拡張することによって,四則計算について閉じている状態を作ることができます。ただし,0で割ることだけは例外です。

視点を変えてみます。数学の問題の解き方は,必ずしも一通りではありません。むしろ,一つの問題に対して何通りもの解き方が存在することの方が多いのです。何通りかの解き方をすることは,数学の力をアップさせるにはいい方法です。学年が上がるに連れて,使える数式や関数などが増えてきます。それだけ多様な解法が出てくるのです。けれども,中学までの数学とか,高校一年で学ぶ数学の範囲のみで解くという,ある程度の制約を設けてあえて解くのも,何通りかの解法を作るのと同様に,効果のある勉強方法といえます。

03/07/07
さくいん

たいていの教科書や参考書の最後の方には,『さくいん』がついているものです。ただし,国語や英語の教科書には,このさくいんがついていないものもあります。英語の教科書の場合,さくいんではなく,単語や熟語,慣用句などが巻末に一覧として載っているものもあります。『さくいん』を英訳すると“index”になります。

さくいんを用いた勉強法があります。理科や社会科などの巻末のさくいんを開き,試験範囲に該当するページをチェックします。その一語一語を10から30文字くらいで,自分なりに説明してみるのです。分かっているつもりでいる言葉も,いざしっかり定義しようとするとできないこともあります。例えば,中学の理科の教科書には「細胞」という,誰でも知っているような言葉があります。同じく中学の社会科には「サービス」があります。どういった場面で用いるかにもよるのですが,「サービス」などは誤った解釈をしている人もいるのではないでしょうか。さくいんにある一語に対して,一分以上語れるようなら大したものです。専門で教えている先生でさえも,全ての用語について語るのは難しいことだと思います。逆に,専門家はある用語に対して語ろうとすると,一時間あっても足りないこともあります。

『さくいん』は漢字では『索引』と書きます。『索』の字は「太いなわ(ロープ),探し求める」という意味があります。インターネット上ではこの『索引』の代わりに『検索』機能があります。『検索』はネット上の「太いなわ」で,調べたいことを「探し求める」ということになります。検索サイトの機能の進化はめざましいもので,その使い方をある程度知っていると,有用な情報を得ることができます。例えば,検索した文字がどこに表示されているかを示してくれるハイライト機能がその一つです。こういった使い方は,知っていると便利だけれども,わざわざ時間を割いてまで勉強する必要はないでしょう。雑誌などで記事に取り上げられていたら,試しに使ってみるくらいがいいように思います。そういったことに時間を費やすのは本末転倒で,調べることに対しての興味がなくなってしまうかもしれません。『索』の字には「なくなる,尽きる」という意味があります。「興味が感じられない様子。なくなり尽きる様子」といった意味を持つ『索然』という言葉もあります。

03/06/06
居心地の良い空間

木々の葉の緑が濃くなるこの時期は,夏を感じ始める頃です。それと共に,過ごしにくい梅雨を迎える季節がやってきました。けれども,六月は衣替えの季節でもあります。冬服に比べると,夏服は明るく軽やかに見え,衣替えをした生徒を見ると,見ている方の気分までも明るくなります。

冬服から夏服へと衣替えするのに対して,住む場所を移動する,いわゆる引っ越しをするときは,窓から見える街並みはもちろん,住んでいる部屋の中の風景も全く異なった世界になります。引っ越す必要性がないのに,住まいをよく替える人は放浪癖があるのかもしれません。引っ越しをしなくても,部屋の中の風景だけなら変えることができます。少し大がかりになりますが,専門家に頼んでリフォームをするとか,そこまで本格的でなくても,壁紙を張り替えるだけでも部屋の雰囲気は変わります。さらに簡単な部屋の風景を変える方法として,模様替えがあります。机やソファの位置を変えるだけでも気分が変わります。並んでいる本の順序を変えたり,照明の色を変えるといったアイテムもあります。いずれにせよ,同じ状態でずっといるのは,居心地が良いようには思えないのです。  

必要性のない -しなければいけない訳でもないのにする- “模様替え”をするという行為は,気持ちの中に「今ある環境を変えてみたい」という願望が潜んでいるのだと思います。ずっと同じ環境でいるのは,確かに安心できるのかもしれません。でも,それ以上の変化は望めません。自ら変えていくといった行為が必要なのです。高々「部屋の模様替え程度で,大げさに」などと思わないでください。まわりの環境の変化を感じながらも,目の前に実在する風景を自ら変えていくことは,それほど悪いものでもありません。

03/05/05
夢の途中

ヤンキースとマリナーズの公式戦が,先日,NHKなどの地上波で実況されました。三年前にメジャーリーグに移籍したイチロー選手と,去年,日本を代表する球団ジャイアンツから,それ以上に歴史のあるヤンキースにフリーエージェントで入団した松井秀喜選手が,初めて直接対戦することが話題になりました。野手同士だから,それほど『直接対決』といった印象はなく,マスコミが騒ぎ立てただけのような感がありました。両者の対決はさておき,去年の秋,日本の四番打者と言われた松井選手のメジャーリーグへの挑戦は,日本中にニュースとして流れました。移籍を決断したときの松井選手は,会見では自分を「裏切り者」と思われても仕方ない,そう言っていました。もちろん関係者,チームメートや彼のファンも含めそんなふうに捉えた人などいなかったことでしょう。彼の,チャレンジ精神に拍手を送っていた人が大多数だと思います。

イチロー選手の活躍は,周知のことでしょう。今年前半の不調を指摘する人もいますが,元々彼はスロースターターだったのだから,徐々にいつもの数字を残していくことだと思います。松井選手においても,評論家を始め勝手なファンが彼がどのくらいの数字をメジャーで残せるかに躍起になっています。そんなことどうだっていいように思います。

彼らよりも年齢が一回りも下の今の中学生や,高校生の将来への希望はどんなものでしょうか。ここ十数年の日本だけではなく,世界的な経済を含めた希望のもてない社会のためか,夢を語れる生徒が少なくなってきたように感じます。安定した収入がほしい,いい会社に入っても終身雇用とは限らない,年金も当てにならない…。夢のあることが語られないのです。みんながみんなそうだというわけではありません。おそらく,今の『大人社会の閉塞感』を敏感に感じ取ってしまっているのでしょう。

松井選手は「メジャーでは中距離打者」とインタビューでは答えていました。けれども,彼にとってはやはり,打球を「より高く,より遠くへ」との挑戦は続いていくことでしょう。彼らは特別な才能をもっているのだから,自分とは違う。そんな反論をする生徒もいます。努力をすれば報われるはずだ,と諭せば,報われないのは努力が足りないせいだ,という短絡的な答えが返ってくることもあります。それでも,決してあきらめないこと,希望を持ち続けることです。今はまだ,夢の途中にいることを忘れないでほしいのです。

03/04/04
鉄腕アトム

20世紀に誕生した21世紀のヒーロー,鉄腕アトムの誕生日がいよいよやってきます。でも,実際にはアトムはもう“存在”しているはずなのです。鉄腕アトムの誕生についてはご存じの方がたくさんいることと思います。生みの父である天馬博士が,死んでしまった実の息子・飛雄の代わりとして,「二度と死なないからだ」として作られました。ところが,どうしてもアトムは目を覚ましません。さて,話は一気に最終話に飛びます。アトムは地球を救うために,ロケットに乗って太陽へと突入してしまうのです。「ロボットは人を助けるためにあるものなんだ」と,『鉄腕アトム』の中では語られています。アトムは太陽に突入したのでしょうか。連載が終了してから,その後の事実が記されました。アトムは太陽に突入する前に,宇宙人に助けられたのです。そして再び地球へと戻りました。けれども,戻った時間が,アトムの誕生より前だったのです。その結果,『タイムパラドックス』が作用し,新しいアトムは目を覚まさなかったのです。このままでは永遠に新しいアトムが誕生しないことを悟った宇宙人スカラは,野原で朽ち果てたアトムを破壊してしまいました。こうして,新しいアトムが誕生しました。

「ロボットは人を助けるためにあるものなんだ」というセリフは,米国のSF作家アイザック・アシモフによるロボット三原則に通じるものがあるように思います。ロボット三原則は,「ロボットは人間に危害を加えてはならない」,「ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない」などがあります。さて,ロボットの定義は,何種類かあるでしょう。たとえば,産業用ロボットというと,自動車や食品工場などで使われているものがあります。最近では介護用のロボットや,『アイボ』の名で知られているペットとしてのロボットもあります。地雷を探知するロボットが,以前報道されていたこともありました。アトムには遠くおよばないにしても,やはりロボットは人を助けるために活躍しているのです。

『鉄腕アトム』の作者,手塚治虫氏の言葉に次のようなものがあります。「産業用ロボットというのは,SFの言葉でオートマシーンといい,アトムのような人間型ロボットをアンドロイドと言っているわけですが,産業用とか工業用ロボットはもともと単純なコンピュータ機械で理性がないのです。情報のインプットはあっても,全く知性がない」と。今,世界では不幸な出来事が起こっています。『鉄腕アトム』の中でロボット同士が戦う場面は多々あります。憎しみあってもいないロボット達がなぜ戦わなければならないのか,アトムはお茶の水博士に問います。博士は「わからない。人間がそうさせているのではないだろうか」とアトムを諭すのです。理性も知性も持った人間が,憎しみあっていないであろう誰かを殺していく。今,戦場にいる兵士達にアトムのような疑問が生じるべき時だと思います。『手塚治虫エッセイ集』には,子供達が殺された場面と共にこんなふうに記されています。「私にはただひとつ,これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はごめんだ,ということだ」。

※ 参考文献 「鉄腕アトムのタイムカプセル」〈長谷川つとむ著 (PHP研究所)〉
※ 参考サイト Tezuka Osamu @ World (http://ja.tezuka.co.jp/home.html)

03/03/03
はじめが肝心

生徒や保護者の方から「どんな参考書や問題集が良いでしょうか」と訊かれることはよくあることです。教科にもよるのですが,定番的な参考書や問題集はいくつか決まっています。版がいくつも重ねられていたり,第~刷の数字(~の部分)が多いものはよく売れている証拠になります。改訂がある程度の期間で行われている,ということも大切なことです。何年も改訂されていない参考書や問題集は,指導要領の改訂についていっていないことになります。それ以上に,年々変化していく入試などにはとうてい対応できなくなるからです。すなわち,参考書や問題集にも『賞味期限』があるのです。去年は小学校と中学校で,今年は高等学校で指導要領の改訂が行われてきています。出版業界にとっては賑わえる年になっていることでしょう。

参考書にせよ問題集にせよ,それらを編纂する執筆者や編集者がいます。ほとんどの参考書や問題集には,最初にその本のねらいや特色,使い方などが記されています。問題集などでは一頁だけで簡単にまとめられているものもありますが,どう使っていけば良いのか簡潔にまとめられています。書店で参考書選びをしている中学生や高校生を見ていると,当然,解説してある本文や問題などは見ているようですが,最初に記されている『本書の特色』や『使い方』の部分は読んでいないようです。「どんな参考書や問題集が良いでしょうか」という質問に対しては,できる限りこの部分を読むようにアドバイスしています。特色や使い方を読んで,分かりやすい参考書は,その中身も比例して分かりやすいはずなのです。すでに持っている参考書や問題集の「特色と使い方」を読んだことはあるでしょうか。もし,ないようでしたら,一度じっくりと読んでみて下さい。執筆者の思いが書かれているかもしれません。

ほとんどの教科書にも,「はじめに」という項目があります。特に数学や物理など理系教科の教科書には,この部分にかなり力を入れているものもあります。本文はある程度決まり切ったことを書かなければならない分,執筆・編集した人の思いが入っているのでしょう。

03/02/02
外来語と言葉の変化

昨年の暮れに,国立国語研究所が出した,「分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫についての提案」という,長いタイトルの中間報告がありました。カタカナで書かれた外来語や外国語が,新聞や公的な機関で頻繁に使われたことの指摘に対する一つの回答です。お年寄に日帰りで介護を提供する「デイサービス」のように,それを使う人になじみにくい言葉は言い換えるのが妥当だと思います。一方,使い慣れている人にとっては,言い換えは却って分かりにくいものになることがあります。このサイト -この言葉は今回取り上げられませんでした- を訪れた人にとって,「インターネットの番組」などと言うと,ブロードバンド -これも取り上げられませんでした- 時代の現在,それこそ新しい「コンテンツ」が始まるものと勘違いしないでしょうか。今回取り上げられた語の中には,「シェア」とか「モチベーション」など,一般に知れ渡っていると思われる言葉も入っていました。いざ,こういった語を日本語に直そうとすると,適当な言葉がすぐに思いつかないこともあります。どこで線引きをするのかは,個人差が出るのでしょう。

いくつかの検索サイトなどで,英語のサイトを日本語に訳していくれる機能が備わったサイトがあります。しかも無料でやってくれるのです。いざという時にはそれなりに役に立つのですが,やはり無料ということもあり,悲しいかな,かなりおかしな日本語になってしまいます。新聞社の英語で書いてあるサイトに行き,翻訳をしてもらうと,本当は笑ってはいけないような事件も,つい笑ってしまうような『迷訳』をしてくれます。スポーツニュースや,東京の町並みを紹介しているページを翻訳すると,その内容がある程度分かっているだけに,おもしろさも倍増します。この翻訳ソフトを作っている方には,申し訳ないのですが,現状では楽しみの一つにしてしまっています。もちろん,このソフトもどんどんよくなっていき,いずれは無くてはならない存在になることでしょう。

国立国語研究所の今回の中間発表において,「期間が限られていたことから,(中略)暫定的に判定し(後略)」と記されていました。期間が限られているのは当然で,むしろどんな期間を作ったところで,また新たな調査が必要になるのは必至でしょう。言葉は生きているもので,時代とともに変化していくのですから。「今の若者は,言葉が乱れてきた」という声は,いつの時代でも耳にするものです。でも,乱れたとするならいったいどの時代を基準にしてのことになるのでしょうか。結局は,今回の外来語の言い換える語の見直しをしなければならないことを鑑みると,世代や地域によって,言葉はしたたかに変化していくものだと思います。

03/01/01
絶対音感

子供の頃にピアノやバイオリンなど楽器を教わっていた人にとって,自然と身に付いている才能に絶対音感があります。単音を聴いてその音を当てるのはたやすいことのようです。単音だけではなく,和音も言い当てるのだから,やはり子供の頃に身につけたことは無自覚の中に備わっているのでしょう。絶対音感にもレベルの差があり,半音以下のもっと微妙な音さえも識別できる人もいるようで,ここまで来ると単に経験だけの賜と言えないように感じます。絶対音感はそれが備わっていない者から見ると,ある種特別な才能のように思われ,羨ましく思えます。しかしながら,絶対音感を持つ人にとって,それは必ずしもプラスになることばかりではないようです。

ピアノは1オクターブを半音を含め12等分して構成されています。ところが,音というものはデジタル(離散的)なものではなく,むしろアナログ(連続的)なものが,楽器だけではなく自然の中にも多数含まれています。バイオリンや鳥の鳴き声もそうでしょう。相対音感というものもあります。あるひとつの音を基準にして,別の音を認識する能力がそれです。ピアノの調律師は440Hzの音叉を基準に調律します。また,合唱の時にもある音を基準にして,みんなで音あわせをしたりします。このときに,絶対音感を持つ人にとって,それがかえって邪魔なものになってしまうことがあるようです。すなわち,一つの備わった才能である絶対音感が,場合によっては,相対音感にしたがわざるを得ないことが存在するのです。そう考えると,“絶対”という言葉に疑問さえ感じます。備わった才能を生かすことができず,あとからやって来た人たちに合わせなければならない“絶対”音感。絶対音感を持っている人たちでさえも,大人になってからは相対音感を身につけることを勧めている人もいます。

けれども絶対音感を持つ人にとっては,さまざまな曲の背景までも,それぞれの色で染めることが出来るのではないかと考えると,やはり絶対音感を持っているということは,結局は羨ましく思う次第です。絶対音感を持っている人,持っていない人。相対音感を身につけようという人。いずれの場合も,生涯を通して音楽を楽しむことが出来ればそれで幸せではないでしょうか。