12/12 タイムマシーン 11/11 情報過多 10/10 ロードサービス 09/09 二十四節気 08/08 新月と満月 07/07 素材と料理 06/06 移動図書館 05/05 新学習指導要領 04/04 数学的帰納法 03/03 卒業 02/02 湯島天神 01/01 一人称と三人称

02/12/12
タイムマシーン

学生の頃に,二ヶ月かけて九州をゆっくりと回る旅をしたことがあります。貧乏旅行というよりは,いかにお金をかけないで旅をするかということに掛けていました。周遊券を買い,新幹線はもちろんのこと,特急にも急行にもいっさい乗らずに東京から九州まで一日半掛けて,ひたすら普通電車を乗り継ぎました。九州に着いてからももちろん,同じように各駅停車にしか乗らず,バスもほとんど使わずに,少々の距離なら歩き,距離があるときにはヒッチハイクをしました。時代が時代だけに,地元の人や観光旅行で来ている人たちに助けられました。  旅先での友達や仲間もでき,何日も一緒に行動することもありました。大分の国東半島に行ったときは,滅多に積もらないほどの雪が降りました。そんな中,鎖が引いてある岩場をそれを頼りに登り,竹藪を抜け最後に直角に近いくらいの絶壁を越えたところにある『無明橋』という橋を目指しました。無明橋はアーチ型の2メートルほどの石橋でした。けれども,橋が架かっている状態が尋常ではなかったのです。小さい橋ですが,欄干はなくその下を見ると,はるか何十メートルも下まで空間が広がっていました。  阿蘇山に登ったときも,バスは使わず麓近くから歩いて行きました。そのときも旅先で知り合った人と登りました。歩くのは大変でしたが,そのお陰で快晴なのにキラキラと舞うように降る雪を見ることもできたし,途中のどが渇けば樹氷を折って食べたりもしました。

 そんな楽しい旅を続けていたとき,妙な噂を聞きました。「カップルで海岸に行かない方がいい。吹上浜で突然蒸発したカップルがいた」と,同宿者の誰かが言っていました。

その噂は事実でした。鹿児島県の吹上浜海岸で拉致事件が発生していました。

過ぎてしまった時間は決して戻らないことは,誰もが認めることですが,認めたくない時間が存在することは否定できない事実です。たった一本,道が違っただけで,もう一つの自分が存在することだってあるのだから。でも,それは決して実現不可能な試みでしょう。振り返っても戻らない遠い過去を顧みるよりは,確実にやってくる近い未来に新たな希望を持てるのならば,無情に過ぎ去った時間も,少しは修復が出来るのだと考えたいのです。

02/11/11
情報過多

ブロードバンドの普及により,安くて高速なインターネット環境が整ってきました。料金的な安価さもありますが,常時接続という便利さは実感出来ます。通信のインフラに関する進歩の速度は,パソコンの他のスペックなどと比べてもかなり速いほうではないでしょうか。それだけの技術的な向上や,設備に対する投資などの成果の表れが出ているのだと思います。    最近,塾のインターネット回線をISDNからADSLに変更しました。回線速度は今までの数十倍になり,これまでさんざん待たされた時間は何だったのだろうか,と感じました。その結果,調べものがその場で出来るようになり,かなり重宝しています。勉強に関することはもちろん,ちょっとしたことも簡単に情報として手に入るようになりました。ソフトのアップデートや,これまでだと数十分は要するダウンロードも,ほんのちょっとの手間で終わるようになりました。この環境を講師だけではなく,生徒にも利用出来るようにしました。これからの時代,情報を得られる環境に慣れて欲しいという思いを込めてそうしました。  けれども,気に掛かることがあります。その場にいてすぐに情報が手に入ってしまう気軽さがある一方,本当に必要な情報を得るための方法や過程が欠如してしまわないか,ということです。ネット上で得られる情報は,検索サイトの飛躍的な速さと確実性で豊富になりました。五感の中でも視覚・聴覚的なことはインターネットでも,それなりのことは得られます。ところが触覚や臭覚,味覚はネット上だけで感じることは難しいでしょう。ヒトがその場にいて感じ取れる温もりや匂い,モノの味はモニターから感じ取れません。雄大な景色を見て感動することや,コンサート会場で本物の音を聴く臨場感なども“バーチャル”ではかなわないことでしょう。  インターネットで情報を得ることが悪い,と言っているのではありません。皮肉なことに,検索サイトが良くなった分,情報過多に陥ってしまうのです。情報の強者と弱者のように区分される言葉も生まれました。それが良いとか悪いとかではなく,たくさんある選択肢から,いかに必要なものを選び出せるかという知恵が大切になってきました。

02/10/10
ロードサービス

機械に限らず,モノを使っていると必ずいつかはどこかに不具合が生じます。そうしたときに修理し,継続して使うか,それをきっかけに買い直すか,あるいはもう使わなくなるか,のいずれかでしょう。比較的安価な電気製品などは,修理するよりも新しく買い直した方が安くつく場合が多いようです。人によっては使っているモノに愛着があり,ずっと同じモノを使い続けることもあるようです。  車はそういったモノの代表ではないでしょうか。クラシックカーはその最たるモノだと思います。さすがに町中では滅多に見なくなりましたが,一時代前のモデルのまま走っている個人タクシーの車を時々見かけたりします。さて,長いこと車に乗っていると,どうしても故障というトラブルに見舞われます。車の場合,路上を走っているときは,故障したからといって「後で修理に出す」という訳にはいきません。その場に放置することは,交通の妨げになったり事故の原因になるのですから。けれども,簡単な故障以外,素人が修理するには車の構造はあまりにも複雑すぎます。今の車は,ボンネットを開けてもぎっしり機械が詰まっていて,奥の方に何があるのかは分かりにくくなっています。  日本自動車連盟,略称JAFで知られている組織があります。彼らの車に対する知識は,それだけの研修や実習を積んでいるのでしょうか,何度か感心させられた経験があります。JAFのロードサービスは,故障時や鍵の閉じ込みなどのとき,電話をすれば全国ほぼ,どの地域でも救護活動にやってきてくれます。素人目には故障してどうにも動けないように思えるときでも,とりあえずその場で動ける状態まで修理をしてくれます。100%直るわけではなく,レッカー移動することもありますが。けれども,何とかしようとする姿には,『執念』というものを感じ取れます。そのプロフェッショナルに徹する姿は,動かなくなった車が動いたときに感動さえ覚えます。ロードサービスはJAFの人にとっては日常のことでしょうが,一つひとつの故障に対して真剣に取り組んでくれます。そういった姿勢は見習いたいと思います。

02/09/09
二十四節気

世界中のほとんどの国や地域で,一年は十二で区切られていることと思います。1月から12月までがそうです。日本も同様なのですが,太陰暦では1月から順に『睦月,如月,弥生,卯月,皐月,水無月,文月,葉月,長月,神無月,霜月,師走』と呼ばれています。この中で,3月を表す『弥生』と,12月を表す『師走』だけは『~月』となっていません。『師走』の師は法師を意味していて,僧侶すなわち師が馳せ走る『師馳月(しはせづき)』が省略されたものであるという説があります。『師走』にも,もともとは『月』がついていたのです。『弥生』については,草木がいよいよ生い茂る月の意味で,『弥生(いやおい)』が短くなったという説が有力です。したがって,『弥生』だけは『月』がつくような説が見あたらないのです。ところで,太陰暦から太陽暦に切り替えられたのは,明治5年12月3日でした。それ以前には,太陽暦との調節のため「閏月」が存在し,その年だけは一年は13ヶ月になっていました。切り替えた年の12月は2日間しかなかったことになります。さぞかし『師』は走り回ったことでしょう。  日本の文化では,さらに季節を細かく区分した言葉があります。それが二十四節気です。二十四節気は中国伝来の言葉で,太陽の黄径を二十四等分した季語を示す言葉です。黄径0度の時が『春分』になります。太陽暦の観点から考えると,春分の日こそが一年の始まりと考えても良いのではないでしょうか。進級・進学の季節がこの頃にあるのは,それがふさわしいように思えます。さまざまな生命の誕生の季節でもあるのですから。春分の日を起点として,太陽の黄径が15度ずつ傾くにしたがって,二十四節気で季節が区切られています。『立夏』は太陽暦では5月6日頃にあります。春の陽気から,夏の始まりを感じる頃です。『処暑』は8月23日頃,秋の気配を感じ始める頃です。次の季節の『白露』は,9月8日頃で本格的に秋が深まる頃です。11月8日頃には,冬の始まりである『立冬』があります。そして,年が明けた1月20日頃に一年で最も寒い時期である『大寒』を迎えます。  かなり大ざっぱですが,一年間を二十四節気で巡ってみました。こうしてみると -東京近辺に住んでいるかぎり- 春と秋の期間が昔より短くなったのではないかと感じます。春休みが終わる頃には,ゴールデンウイーク並の暖かさになり,「初夏を思わせるような陽気です」は天気予報の常套句にもなった感があります。そして,その連休の頃には真夏を思わせるほどの気温を記録することも,毎年のことのように起こっています。さらに,9月になっても続く長い残暑。秋はいつから始まるのでしょうか。大都市,特に東京都心の平均気温が百年間で3度も上昇したという報告が,この夏に発表されていました。人が生活しやすいようになった分,人間は地球の環境さえも変えてしまったのでしょうか。これだけ便利になった社会を,昔のような生活に戻すことは,人為的に行うことは出来ないところまで来てしまいました。京都議定書による二酸化炭素排出規制など,何とかしよう,という考えはあります。現段階では,人間が自然を変えようとしているように思えます。けれども,結局人間は自然の前には無力に等しい,と思い起こされるときがやってくるのではないでしょうか。母なる地球は,人間の行っている愚行に対して,いつか怒りの雷(いかずち)を落とすのではないでしょうか。

02/08/08
新月と満月

数直線は左から右に向かって,マイナスから0へ,さらにプラスへと進んでいきます。線を引くときも,左から右へと引くのが一般的でしょう。時間のベクトルは一方向にしか進みません。過去から未来への一方向です。時間だけは現状では,逆ベクトルが存在できないのです。アインシュタインの特殊相対性理論によれば,光よりも速く移動すれば,数学的な机上の論理では時間は逆行するので,理論上は一応は存在はします。カレンダーも左から右へと日や月は進んでいきます。  時間的な経過が,左から右ではなくその逆になるものはあります。縦書きの本がそうです。日本語で書かれている小説は,右のページから左のページへと読み進んでいきます。時間が前後して書かれることもありますが,基本的には時間の経過と共に記されるのが一般的でしょう。マンガについても同様で,ネーム(セリフやコマ割りなど)が縦書きのため,右から左へと読み進めていきます。英語など横書きになると,小説もマンガも左から右へと時間的経過は進んでいきます。同じ日本語でも,縦書きの本と横書きのそれとは,ページのめくり方は異なります。数学の教科書は時間のベクトルと同様に,国語の教科書は時間とは逆ベクトルの方向へと進んでいます。  宇宙はビッグバン以降膨張の方向へと進んでいます。今後,膨張がさらに進むのか,ある時点で収縮へと向かうのかは現段階では,物理の学会でも意見が分かれているようです。どちらが良いとか悪いとかではなく,常に変化しているということです。人の場合,生まれてから成長を始め,それぞれの個人において最も充実する時期を迎えます。そして,ある時期からは老いていき,最後は死によって終焉を迎えます。けれども,成長している段階や,老いの時期でも必ずしも成長し続けたり,後退したりするばかりではないのでしょうか。不規則ながらも良い状態の時があれば,自分にとっては不本意な時だってあるはずです。すなわち,定期的な周期はないものの,人にも満ち欠けはやってくるように感じます。

02/07/07
素材と料理

生徒に料理をするのかと聞いてみると,男子はさておき,女子も最近では -昔からでしょうか?- あまり家で料理はしていないようです。家庭における料理は,母親が娘と一緒に支度をすることによって母から娘へ教えることは,昔のことになってしまったのでしょうか。コンビニやスーパーなどで安くて美味しい弁当が揃っているため,一人暮らしの学生でも自炊をするよりは,出来合いのものを買ってきた方が安上がりになるらしいのです。  料理は扱う素材の良いところを引き出すのが一つの魅力だと思います。逆に言えば,素材の良いところを引き出せるのが料理上手と言えるのではないでしょうか。魚や肉にしても,野菜や果物でも,粗末に扱うことは,素材に対して礼を失っています。また料理は,ほんの少しでもひと手間入れることによって,いつもとは違ったものになるはずです。インスタントラーメンでも,少しの野菜を炒めて加えるとか,チャーハンにしてもあんかけで一工夫するなど。そのまま,ではなく自分なりの「何かをする」という気持ちが大切なのです。料理の「料」は材料,すなわち素材を表します。この字は米と斗に分けることができます。米はまさしく日本人にとっては主食となる穀物で,斗は昔の尺貫法での容積を表します。お酒などの一斗樽は今の単位ではおおよそ18リットルになります。「理」は一般的には「物事のすじ道」を表しています。物理は物体の状態変化を,倫理は人間の行うべき道を,地理はそれぞれの土地の気候や政治・交通などを研究する学問です。  素材の良さを引き出すのは,観点を“教える”ことに変えれば,生徒のもっている良いところをいかに教える側が引き出せるか,に似ています。個々のもっている性格や,興味のある方向へ導くのが,良い『料理人』と考えています。素材=生徒の良いところをどうやって引き出せるかは,料理人の腕も必要でしょうが,素材を引き出せる目を育むことが重要になってきます。

02/06/06
移動図書館

『ひまわり,あじさい,たんぽぽ,さざんか』。別に花の名前を並べているわけではありません。いろいろな地域を巡回している移動図書館の車の名前です。その名称は花の名前以外には『ほたる,はまかぜ,青い鳥,そよかぜ,いずみ,あおぞら,もくせい,やまびこ』などがあり,自然と関連したものが目立ちます。また,ひらがなで巡回車の名前を付けているのが圧倒的に多く,このことは,地域の子供達に,本に馴染んで欲しいという願いも込められ,そうしているのではないでしょうか。向日葵,紫陽花,蒲公英,山茶花では,大人でさえ読めない人が出ます。ちょっとした漢字の読みのテストのようです。  移動図書館の車に載せた本の積載冊数量は1000冊くらいから,多いもので5000冊を越えるものまであります。必要な本が無いときは,予約をすると次回の巡回日に用意してくれるところもあります。暗い車内を明るくするために採光窓がついている移動車があったり,折り畳み式のブックトラックなどもあります。移動図書館で借りた本は最寄りの図書館に返却も可能なようです。巡回する地域の公民館や学校では,紙芝居やスライドの上演も行ってる地域もあります。ODAを通して,東北タイに移動図書館が寄付され,多数の子供達が本に親しんでいる事実もあります。  人類で最大級の発明は印刷でしょう。印刷の技術がなければ,一般の人たちが読み書きをするのは困難なことだったでしょう。また,これほど文明も発達しなかったことは言うまでもありません。コンピュータにデータを入力することにより,ペーパーレス化が進むかと思ったところ,当のコンピュータを使うための分厚いマニュアルが,一時期のパソコンには付属するという皮肉な結果もありました。現在でも,新しいソフトを本気で使おうと思えば,それなりのマニュアル本は必要になります。結局,紙に印刷されたものが最終的には必要になるのです。  ゆとりの教育から学校の完全週五日制になり,ますます学校では本を読む時間が減っていくのではないのでしょうか。もし,近所に移動図書館が来るような地域に住んでいるのなら,親子で出向くことをお勧めします。読書が出来るのと同時に,新たなコミュニケーションも図れるのではないでしょうか。

02/05/05
新学習指導要領

新学習指導要領に基づき,中学では今年から,高校では来年からこの指導要領が実施されます。最も,中学ではすでに移行措置をとっている学校も出ています。中学でも高校でも内容の大幅な削減が,新聞やテレビなどの報道,あるいはさまざまなサイトで論じられています。それだけ,学校教育さらには,将来を背負って立つ子供達の教育に,大人達は感心を強く持っているのだと思います。  塾でも,新学習指導要領に基づいた新しい教科書を購入しました。中学の教科書を見てみると,どの教科書もまず印刷がきれいになって,市販されている参考書のようになりました。一昔前,中学受験の大手塾『四谷大塚』の問題集が,それまでの無味乾燥的な活字中心のテキストから,イラストをたくさん取り入れて,親しみやすくしたのと似ていると感じました。特に理科や社会においては,フルカラーで印刷されたものとなりました。それ自体は悪いことではないと思います。けれども,各教科の先生の反応は,一様に良くありません。それは,長年教えてきた経験から,内容の薄さを感じたからだと思います。  今回の教育改革は戦後では六度目になりますが,最も大きな改革だと言われています。文部科学省による新指導要領の骨子として,総合的な学習の時間で「自ら課題を見つけ,考える力・生きる力をはぐくむ」というものがあります。さて,今の子供達に自ら課題を見つける力がどれだけあるのでしょうか。みんながそうであるとは言いません。与えられたものをこなすだけでも充分なくらいの成績を残せるのが現状です。そんな中で,目的意識をもって課題に取り組める生徒がどれだけいることでしょう。さらに,そういった指導をしていける先生を育てなければなりません。学校のような一斉授業で,生徒一人ひとりに目的や目標を持たせることは,はっきり言って無理なことです。所詮は,文部科学省の言う理想論に過ぎません。現場の実情との格差を否定できない,今回の指導要領と言えます。情報過多な今の時代,選択肢が多い分生徒達は何を選ぶべきか,それさえもできない状況だと思います。生徒一人ひとりと向かいあった中で初めて,その生徒が一対一の人間として話ができ,何をしたいのかが分かると思います。

02/04/04
数学的帰納法

中学の数学でも,高校の数学でも証明の分野は嫌われ者です。中学の図形では,三角形や平行四辺形,円などの性質を知った上で,定理を覚え仮定をふまえた上で論理的に証明していきます。きっと,こういった数学では珍しく覚えなければならない,という作業と『論理性』というあたりに難を示すのでしょうか。けれども,それ以前にもっと重要なことを忘れてはなりません。例えば円に関する証明問題をするとき,円の定義って何?との問にしっかり答えられることは必要です。  高校の数学に「数学的帰納法」という証明法があります。これは図形の証明問題ではありません。『ある状態のときが成り立つとすると仮定すると,その次も成り立つ,したがって全てのことに対して成り立つ』といった感じです。けれども,これでは何を言っているかよく解りません。というより,何を言っているのだろうか,と言われかねません。実際,教科書で勉強する「数学的帰納法」も,生徒側からみればこの話とそう大差ありません。難しいことを専門的な言葉や数式を使って説明することは簡単です。  高校生になったばかりの生徒に,この「数学的帰納法」を説明するときにはこんなふうに話します。世界中の米を食べ尽くせることを証明するのです。誰だって空腹時なら,茶碗一杯のご飯は食べられます。何杯か食べているうちにやがて満腹になります。「もうこれ以上食べられない」といった状態でも,あと一粒だけくらいなら食べられます。その一粒を食べたあとでも,やはりもう一粒くらいは食べられるでしょう。これを繰り返していけば,やがて世界中の米を食べ尽くすことはでき,証明は完了します。この論理だと,世界中の水も飲み干せますし,世界中の紙を両手で持つことも可能です。  もちろん,そんなことは不可能です。すなわち,この論理には不完全なところがあるのです。最初に数学は『論理性』が要求されます,と記しました。確かにそれは正しいのでしょうが,何でもかんでもそういったルールに縛られるのではなく,もっと自由な発想があってもいいと思います。

02/03/03
卒業

卒業の季節を迎えました。入学した頃はピカピカの制服も,卒業のときにはテカテカの制服になっています。それだけの歳月を過ごしたという証になります。街中でも羽織袴を装った女子大生が,卒業式へ向かう姿を見かけるのが,この時期の風景でもあります。それまで使っていた机は,これからは後輩達が使うようになっていくことと思います。下級生たちに送り出され,新しい出会いがやってくる季節です。  自分を変えようと思ったときに,-おそらく- 継続された一つの環境の中では,変えることは思ったよりも困難なことだと思います。本当はこうしたい,本来の自分はこんなものじゃない,と思いつつも今の環境や状況が過ごしやすく,変えようとしないのは奢りだと思います。変化をもたらしたいのなら,卒業という今このときがチャンスだと思います。卒業証書をやぶり捨ててしまうくらいの気持ちで,新しい自分に生まれ変わって下さい。  卒業は何も学校だけではありません。社会に出てからでもあります。それに,中学や高校あるいは大学の在学中でも卒業は存在します。学業だけでなく,自分の信じてきた事柄や人に対しての卒業がそれです。卒業は一つの区切りでもあるのでしょう。区切り -卒業- をはっきりさせる儀式が卒業式になります。何かに対して卒業するということは,それはその人にとっての価値基準の一つになります。他人から見れば何てこと無いことでも,当人にとってはとても重要な出来事だと思います。自分のものさし,他人の基準,同じ長さであるはずがありません。ときとして傲慢に思われても,自分のものさしを信じて卒業していって下さい。

02/02/02
湯島天神

一月の大安の日に,毎年文京区にある湯島天神にお参りに詣でています。湯島天神には菅原道真公が奉られています。地下鉄の湯島駅から地上に出ると,冬の風は冷たく感じました。不忍池へと向かう道に沿ってほんの少しだけ進み,すぐに左に折れます。本郷へ向かう上り坂を進むと,登竜門夫婦坂という階段があり,そこから天神様へと進みます。一番最初に訪れるのは古い御神札(おみふだ)やお守りなどを戻す『納札所』です。次に境内の梅を少しだけ見て歩きます。その年の気候にもよるのでしょうが,今年は二分咲き程度で,それでも早咲きの梅は白梅が満開の状態でした。手水を使ってお清めをしたあとに本殿に向かいます。お賽銭箱に500円玉を二つ入れます。一つは東中野教室分,もう一つは八王子教室分です。この一年間の受験生の合否の報告をすると共に,次の学年やこれから受験する生徒の合格をお祈りします。天神様のお参りは『二礼,二拍手,一礼』が作法です。けれども,前の人があまりにも熱心にお祈りをしていたのに圧倒され,ちゃんと二礼できたか,はっきりとは覚えていません。少しだけ絵馬を見てから,巫女さんのいる詰め所に行き合格鉛筆を頂きます。この鉛筆は,受験前や大事な試験前には生徒におみくじ代わりに引かせています。鉛筆に記されている言葉は,全部で六種類。引いた生徒達のそれらの言葉に対する反応は様々です。筆箱にずっと入れている生徒もいます。  菅原道真公といえば,太宰府天満宮が有名です。去年修学旅行で太宰府に行った高校生が,「心字池に架かっている橋は戻ってはいけないんですよね」,といっていたのを思い出しました。三つの橋は順に過去,現在,未来となっていて,戻るとは過去に戻ることになるからです。そう考えると,湯島天神でのお参りの順番は,これと同じではなかったかと思います。帰り道はなだらかな女坂から帰りました。今年は菅原道真公千百年大祭の年になります。

02/01/01
一人称と三人称

小説の書き方には,主人公が筋書きを独白状の形で述べる,いわゆる一人称態と,作者が主人公やそのまわりの登場人物を俯瞰的にもしくは客観的に記す三人称態に大きく分けることができます。好みの違いによるのかもしれませんが,人によってどちらか一方が読みやすいと感じることがあると思います。一人称態は,主人公の主観的な心情や生き方,考え方が読む側に伝わり,それゆえ共感できない小説では,途中で挫折してしまうことがあります。それに対して三人称態は作者が話の筋を作り,いわば脚本化された部分は否定できないように思います。三人称態は,述べている作者は“神の視点”だと,以前塾の先生と話していたときに聞いたことがあります。どちらの書き方にも限界があって,物語の中で『転調』することもよく見られます。例えば一人称態では相手の手紙文を挿入したり,三人称態では主人公の独白文が部分的に現れたりします。    現実の世界ではどうでしょうか。当然誰もが自分中心の一人称態で生活しているものだと思います。自分以外の他者(第三者)の気持ちや考え方は推測あるいは憶測して測るしかないからです。その間に考え方のずれが出たり,微妙なバランス感覚を失うことがあるものだと思います。こういったことを通常「誤解」と呼んだりもします。この「誤解」を埋められる場合もあれば,ずっとすれ違ったり,あるいは溝がさらに深まっていき,最後には解決の糸口が見つからないことがあります。時間が解決することもありますが,それにはかなり長い時を要することが多いのです。中学生から高校生という多感な時期を迎えている生徒達の不満や不安は一人称態でストレートにぶつけてくることがあります。今の世の中,そういったことのはけ口として,ケータイでの自分の生活領域には無関係な『第三者』とのメールのやりとりや,匿名性を維持できるBBS(自分を名乗らずにできるネット上の掲示板)などがあるのでしょうか。    けれども,塾で生徒が語ってくれるとき,一人称と二人称になります。そこでは匿名性も消えます。学校での生活,特に友達やクラスメート,先輩や後輩さらには親に対する不満,勉強に対する焦燥感,将来や社会に対する不安など,今の生徒達を見ているとさまざまな悩みや問題を抱えているのだとあらためて感じざるを得ません。年齢的にも自分中心になる一人称態から,他者も思いやられる三人称態になることも,ときとしては必要な方策です。