12/12 間接照明 11/11 洞察する心 10/10 代用品 09/09 月と錯覚 08/08 旧師 07/07 休み時間 06/06 記憶と数字 05/05 時間 04/04 取扱説明書 03/03 アルバム 02/02 標準値 01/01 ハビタブルゾーン

12/12/12
間接照明

今年,日本では金環日食を見ることが出来ました。あいにくの天候であった地域も有りましたが,滅多に見られない天体ショーに心躍らせた人も多かったことでしょう。その一方で,太陽を観測するときに専用のサングラスをしなかっため,目を痛めてしまった人が出たという報道もありました。太陽の光はそれだけ強く,直接見るには危険が伴うのです。太陽観測用のサングラスで外を見た経験がある人ならすぐ解るでしょうが,そこから見る世界はほとんど真っ暗で「本当にこれで見られるのかしら?」と首を傾げる人も居るはずです。それだけの強いフィルターを通して,太陽は初めて肉眼で見るのに耐えられる光量となるのです。星の明るさを表す等星でいえば,太陽は-27等星でこれは満月より40万倍以上も明るいことになります。こういった数値はあまりにも大きすぎて,どう解釈したらいいか解らなくなります。太陽の質量は地球のそれの30万倍以上にもなり,中心温度は1500万度を超え,もし太陽から離れるとしたら,最低でも秒速620kmもの速度が必要となります。こうした太陽のもつありとあらゆる数値は,何においても桁違いに大きな数になってしまいます。

太陽のもつあらゆる数値はどれも『大げさ』過ぎるものであります。けれどもふだんの生活では何においても限度を踏まえる必要があります。急激なダイエットや,時間が足りないからといって,試験前に寝ずに勉強をするなど,身に覚えがある人も居ることでしょう。その結果はどうだったのか,振り返ることを忘れないでください。すべてにおいて一番を目指すことや,トップになることを否定している訳ではありません。無謀な計画や,身の程をわきまえずに無茶をすることがいけないのです。急激な変化は望ましくないことが多々あります。

部屋の明かりにも,その時々に応じた適度というものがあります。友人を招いたときの明かり。部屋の掃除をするときの明かり。読書をするときの明かり。「それらすべて同じ」と言う人も居るかもしれませんが,逆にそこにこだわりをもつ人も居るでしょう。大きな試験や仕事を乗り越えたあと,自分の部屋でゆっくりくつろぎながら楽しみにしていた映画を見るときなどは,間接照明のやさしい光を感じながら過ごしたいものです。煌々とした白昼色の蛍光灯のもと,あまりくつろぐ気にはなれないのが正直なところです。

12/11/11
洞察する心

ここ最近になって自転車の歩道通行の危険性が言われるようになりました。確かに歩道を歩いているときに,自転車が勢いよく近づいてくると恐怖感を抱くことがあります。走行している自転車が人と衝突したときの危険性は実証されているようで,テレビでそうした映像を見ると実感できるものです。こうしたことがあり,次第に自転車が車道を走行するケースが増えてきました。そうなると今度は車を運転する側が気をつけなければならなくなります。自転車側の視点に立てば,歩道を走っているときは交通強者だったのが,車道に出た途端交通弱者となってしまいました。何も自転車に限ったことではなく,車を運転している人もひとたび歩行者になれば同様に強者から弱者へと立場が変わってしまうのです。

大学あるいは地域の部活やサークルには『ディベート』に関するものが有ります。ディベートはあるテーマに沿って,肯定派と否定派に分かれ意見を述べ討論します。肯定派・否定派どちらにつくかにより,話す内容が180度変わってしまうのは当然でしょう。ディベートの技術を上達させるために,肯定派と否定派を交代させ論じさせる方法もあります。立場が入れ替わることにより,それまで賛成していた人がそのテーマについていきなり否定的な意見を述べるのですから,これが通常生活している学校や社会ならば人間性を疑われかねないことになります。

大学で行われたある実験では,ふだんは対等な立場である学生にまったく正反対の役割を与えると,やがて学生間での優劣関係が生じてしまうという事例を聞いたことがあります。実験での2つの役割は刑務所の刑務官と囚人でした。刑務所内の生活や規律を守らせるべく刑務官が囚人に指導や罰則を与えていくうちに,囚人役の学生はやがて刑務官役の学生から虐待を受けるまでになり,予定していた実験はかなり早期に打ち切られたそうです。こんな例もあります。ある部活の顧問が問題行動を起こす部員をキャプテンにしました。結果,その生徒がチームを引っぱるようになり見事リーダーとしての役割を果たし勝利へと導いたのです。

立場が変われば人は良い方にも悪い方にも変わってしまうことがあります。「こどもが言うことを聞かない」とか「なぜこんなに遊んでばかりいるのだろうか」などこんな悩みを持つ親は多いようです。こども達に言わせれば,自分が親になったら自分のこどもには親から言われたようなことは絶対言わない,そんな言葉がときとして聞かれます。昔こどもだったいまの親も,自分がこどもの頃に言われた親の言葉を思い出すことも大事です。こどもが親の立場になって語るにはまだ早すぎるでしょう。それならば,その時代を過ごしてきた親の方が自分の立場を変えてこどものことを考えてみれば,こどもに対して抱いている不安は幾分でも解消できるはずです。

12/10/10
代用品

その昔,家に糊が無いときには米粒を水に少し溶かして,小皿の上で練り糊の代わりとして使ったことがあります。粘着力は本物には負けるものの,こどものちょっとした好奇心をくすぐるには十分だったでしょう。祭りのとき,出店の金魚すくいで金魚をとってきたこどもが,それを入れる容器がすぐに見つからなかったとき,ゴミ箱からそうめんの入った使い捨ての透明の容器を取り出して洗い,そこに水を張りしばらく眺めていたことがあります。

いまの世の中は便利になり,どんな時間帯でも歩いて数分で日用品が買える店が点在しています。いつでも煌々とした明かりの中多数の品を揃えた店がそこここに見ることが出来ます。生活をする上では便利にはなりましたが,良い点悪い点を持ち合わせるのは,長所と短所が背中合わせであるのと似ています。モノを工夫して使うという点では,昔はさまざま有ったようです。風呂敷などは単なる一枚の布であることに変わりはないでしょうが,包むものの大きさや形状にかかわらず,その形を変えることにより多くのものを包んで運べます。包み方は一種の幾何学でもあるのです。

ふだん使っている身の回りのモノを,本来の使い方とは異なる使い方をしているという人は案外多いのではないでしょうか。自分では意識していなくても,人から見れば「そんな使い方があったんだ!」と思わせることもあるでしょう。そういったアイデアがときには商品化されヒットすることもあるようです。どこにでもあるクリップは,たかだか針金を曲げただけなのに,モノを留めておくには便利であるにもかかわらず,安価でかなりの数を買うことが出来ます。無いと絶対に困るモノではないけれども,必要なときに無いとそれなりに困ることもあるでしょう。ふだんと異なる使い方は,そうしようと思って別の使い方をするのではなく,いわゆる『必要は発明の母』的な発想でそうなることが多いような気がします。けれども制限を掛けて,あえて違う使い方を考えるのも面白いのではないでしょうか。

12/09/09
月と錯覚

月の大きさは東の空から昇ったばかり,あるいは西の空に沈む頃には大きく見えます。太陽にしても,夕方の西の空にきれいな夕焼けを残しながら沈むときなどは,これでもかというほど大きく見えます。昇ったばかりの月,沈むときの月は天空にある月,特に真冬の天頂の月と比べると,かなり大きく見えます。冬の月はその寒さも手伝うのでしょうか,少し大きめの星のようにさえ思えます。青白くなった小さな月が余計に寒さを感じさせます。一方,西の空の月や太陽は,暖色系のオレンジに輝き,人々の心を和ませることもあります。

ところが実際はどうでしょうか?昇ったばかりであろうと,天空高くに位置していようが,地球から月の距離は同じ日の内なら差があるわけではありません。遠近による大きさの大小など無いはずなのに,なぜか地平線付近の月や太陽は大きく見えます。この仕組みは『錯覚』によるものとして考えられています。地平線付近には大きさの比較できる建物や山などがあります。これらの物の実際の大きさを人は経験的に知っています。ビルも山も身の回りの物ではかなり大きい方です。その大きな物と比較しても負けないくらい大きな物体があれば,それを大きいと感じてしまうのは当然のことでしょう。小柄だと言われているプロのスポーツ選手と実際に会ってみると,思ったよりも小さくなく,むしろ大きく感じた経験はないでしょうか。プロ選手ともなれば一般の人よりも体格が良いのが普通で,そんな中に少し小柄な人が居れば相対的に小さく見えてしまうのは仕方ないことです。ハリウッド映画では,主演男優の背に併せて女優のキャスティングをすることもあるという話を聞いたことがあります。

人の目の錯覚を利用したトリックアートや,現実にはあり得ないだまし絵などもあります。ワープロで「杏マナー」を連続して打ち込むと全体的に右下がりに見えてしまうのは,フォントの作りによる錯覚です。実体とは異なるように知覚することが錯覚です。目の前にある実体をしっかり見抜ける眼力をつければ,錯覚もなくなることでしょう。そうすれば西の空にある月も天頂の月も同じように見ることが可能になるのかもしれません。今年は八月には月に二度満月を観測できたというブルームーンも観測されました。九月は言わずとしれた中秋の名月が見られます。澄んだ空に浮かぶ煌々とした光を見ると,どうしても錯覚だけで説明しきれないと思うのが心情ではないでしょうか。

12/08/08
旧師

小学校の先生は,学校で教える教科のそのすべての授業をしなければなりません。いま思い返すと,小学生の頃に教わっていた先生方は,そうした苦労などみじんも見せずに授業を進めていたように感じます。いまの時代と異なり,まだ中学受験などすることがほとんど無く,ピアノや算盤などのいわゆるお稽古事以外で塾に通っていたこどももほとんど居ませんでした。こども達にとっての勉強の場と学校はイコールで繋がっていました。遊ぶ範囲もその方法もいまの時代とは比べようも無く単純だったのと同時に,こども達の先生に対する信頼もまっすぐだったように感じます。

そうしたことを差し引いたとしても,小学校の先生は当たり前のように毎日の授業を行い,その存在がこども達の中にありました。朝起きて学校に行き,席に着けばやがて先生が来て授業を始める。それが当たり前の日常でした。けれども大人になり,いまやその頃の先生達と同じかもしくはそれ以上の年齢となり,当時の担任の先生のことを思い返すと,教わってきた先生達の偉大さが身にしみます。先生だって中学生や高校生のときに,苦手な教科があったはずです。でも,小学校の先生になるには例え苦手であろうとも,国語も算数,理科や社会科など何でもこなさなければなりません。ある程度の音楽に関する知識も必要でしょうし,さまざまなスポーツに関する見地をもち基本的なルールを理解し,あるいは泳ぐことだって必要とされます。こどもの学校でのふだんの生活や様子を見たり,状態が悪ければそれを見抜けるような眼力も必要でしょう。昔でもやはり,モンスター的な親だって居たことでしょう。大人になってそんなことを知ってしまうと,小学生のときに教わっていた先生はどんな風に毎日を過ごしていたのか思いを巡らせてしまいます。

「小学校の先生はスーパーマンだ」と以前誰かがそんなことを言っていました。でも先生方もその時代ごとにさまざまな問題に突き当たったり,あるいは個人的なことで悩んでいたのかもしれません。そういった姿を,少なくともこども達に感じさせなかった先生方は,真のプロフェッショナルだったのでしょう。

12/07/07
休み時間

学校の授業の合間の休み時間はどのように過ごしていたでしょうか。ふだんなら仲のいい友達どうしお喋りをしたり,昼休みなど少し長めの休み時間ならば,校庭に出て遊んだりしていたことでしょう。中には一人静かに本を読んでいたり,前日の睡眠不足のため机に突っ伏して眠ったり,あるいは部活動や生徒会の仕事などをしていた経験のある人も居ることでしょう。悩みを抱えながら,保健室に行き話を聞いて貰った過去を持つ人も居ることでしょう。図書館の先生と仲が良くなり,本を読む訳でも無いのに足繁く通った覚えのある人も居ることでしょう。休み時間の使い方や過ごし方は,人によりさまざまで学校での立ち位置や,人間関係がそこには何かしら現れてくるのです。

大人になり仕事をするようになると,学校のような短い時間の休みはほとんど無くなります。職種にもよりますが,昼休みが一斉に取られる職場もあれば,時間帯を分けて各自取るところもあります。工場などが前者でサービス業は後者が多いのではないでしょうか。仮にそうだとすると,一斉に休み時間を取る工場や現場などでは,学校の時と同じくその人のその会社での立場が見えてくるというものです。そこに人間関係が出来ていき,場合によってはやがて派閥なるものが構築されていくこともあり得ます。休み時間にはそんな『副作用』も潜在しているのかもしれません。

学校での休み時間の過ごし方のように,友達と過ごしたり保健室や図書館に通ったりすることも,どれも次の授業に臨むための気持ちのリフレッシュとなるのです。勉強でも仕事でも,それがどのような種類のものであっても,休むこと無く継続することなど決して出来ることではありません。例えそれが自分の好きなことであっても,必ず休息は必要となるはずです。自分がやらなければ仕事が滞ってしまう,などと思い詰めたり,自分を追い込みすぎないことです。言い換えれば自分のことをそれほど過信しすぎないことです。必要とされる誰かが居なくなったとしても,その代わりになる誰かも居るのだから。新しい発想を生むためにも休み時間は大切な時間なのです。

12/06/06
記憶と数字

数字に対して持つイメージは人それぞれでしょう。たとえば『7』という一桁の数を見たときに,何を思い浮かべるでしょうか。ラッキーセブンだとか,好きなスポーツ選手の背番号だったり,自分の出席番号,あるいは誕生月などさまざまでしょう。ヒトの記憶のメカニズムはかなり複雑なようで,どんなに速いコンピュータのメモリでさえも敵わないことがあるようです。たった一つの数字から何を連想するのかは個人的にも異なりますし,そのときの状況によっても違うものを思い出すかもしれません。

数字から連想しやすいもののひとつに,月日や時間に関するものがあります。日本人にとっての『311』,米国人にとっての『911』はおそらく誰もがすぐに「あの日」を思い起こすことでしょう。忘れられない記憶,あるいは決して忘れることの出来ない記憶として人々の心の中に刻まれた日であるからです。そういった意味では『815』という数字も,日本人にとって忘れてはならない数字でしょう。

何もこうした類の数字ばかりではありません。『3.14』という数は円周率を連想する人も多いでしょう。化学をある程度勉強したことのある人なら『22.4』,物理ならば『9.8』など何度も使ったことのある数字でしょう。銀行で使っている暗証番号が,偶然見かけた車のナンバーと一致してドキッとした経験は無いでしょうか。職業的に馴染んでいる数字というものもあることでしょう。野球の選手ならば『18.44』が何を表すかはすぐに分かるはずです。生活の中に密着している数字だからこそ,個人個人で持っている数が存在するのです。記念日や,大切な人の誕生日,歴史的な出来事のあった日など,さまざまな数字がそれぞれの中にあることだと思います。そうした数字を見たときだけでも,ある人のことを思い出したりその当時の記憶がよみがえることもあるのでしょう。

12/05/05
時間

私たちの生活している世界は三次元空間で出来ています。いわゆる縦と横,それに高さで構成されています。物理空間を考えるときには,x,y,zの3つの実数によって表され,「幅・奥行き・高さ」という広がりをもつ,と定義されています。これらに「時間」を加えることにより4次元まで概念を広げることが出来ます。平面的な移動は誰でも簡単に出来ます。高さに関しては道具を使えばある程度のところならたどり着けます。けれども時間だけはどうにも移動不可能でしょう。空想の世界でなら例えばタイムマシーンを使えば時間を行き来することが可能となりますが,現実的な話ではありません。時間という空間軸だけは人知のおよぶ範疇ではないのです。

車で移動しているときに,何をそんなに急いでいるのだろうかと思うことがあります。その一方で,急がなければならないときに飛ばしすぎていることを自ら感じることもあるので,決して人のことを非難できる立場ではありません。以前,テレビ番組で目一杯急いで目的地に向かう車と,法定速度など交通ルールをしっかり守って移動した場合の時間を比べていたものがありました。その結果それほど大きな差がないことが分かりました。ほんの少し,余裕を持って出掛ければそれほど急ぐ必要などないのです。

忙しいときなど「もっと時間が欲しい」などとよく嘆いたりします。また,どんなにお金を積んでも時間だけは買うことが出来ない,という話もよく聞きます。それだけ時間は貴重なものなのです。人はもちろん命あるものはすべて生まれると同時に,死に向かって時間が進んでいくという事実は,誰にも避けがたい事実です。その進むベクトルは誰にも一方向しかないのです。それは生まれたばかりの生命でも同じことで,それが命あるものの宿命でしょう。だからこそ時間は貴重なのです。

12/04/04
取扱説明書

電気製品や家具などを買ったときに,必ず取扱説明書が着いてきます。使い方が複雑なブルーレイレコーダーやパソコンなどはかなりの厚さになります。携帯電話やスマートホンも呆れるほどの説明書となります。説明書と言うよりは冊子になっていて,いったいどこを読めば自分の調べたいものが有るのか悩まされます。パソコンでは,そういった扱いにくさを無くすために,初心者でも分かりやすいものに取り組んでいたメーカーもありました。無いと困るものですが,その量が多すぎると読む気が失せてしまい無用のものとなるので,そのあたりの塩梅は作成する側を悩ませてるのかも知れません。

取扱説明書はそれが無くてもすぐに使えそうな品もあります。例えば電卓などがそうでしょう。特に読まなくても誰にでもすぐに使い始められます。その目的がほとんどの場合簡単な四則計算に終始するからです。ところが電卓のキーをよく見ると,ほとんど使わないものが無いでしょうか。どの電卓に着いているメモリーキーなどその代表でしょう。その存在は知っているものの自信を持って正しく使える人はどれくらいの割合で居るでしょうか。電卓の取扱説明書は,広げるとせいぜいA4サイズの紙一枚程度です。その中にメモリーの使い方は当然あります。ほんの少しの時間を割けば,誰でも使いこなせるように説明されています。そう,因数分解を勉強するよりもはるかに簡単なことなのです。それだけではなく,例えば平方数の計算,すなわちある数の2乗の計算において,2度同じ数を入力する必要が無いなど便利な機能が隠れています。電卓のもつ本来の性能を見逃している人が大多数になるでしょう。

それよりももっと複雑な性能を持ったモノが私たちの身の回りにはあります。それらを生かすも殺すも使う人次第です。もしいま使っている商品の取扱説明書が残っているのなら,わずかな時間で構わないので一度読んでみてはいかがでしょうか。

12/03/03
アルバム

引っ越しのときの禁じ手として,アルバムを開いてしまうことがあります。昔撮った写真を見てしまうと,そこで作業が中断してしまうからです。写真は如実にそれを撮ったときに時間を戻してしまいます。アルバムを開けば,多かれ少なかれ想い出に耽ってしまうものです。被写体は人であることが多いでしょう。自分が写っていることもあれば,家族や親類,友達や大事な人たちがアルバムの中でほほ笑んでいることでしょう。そうした人たちがいまどうしているのか,写真を撮ったときにはどんな状況だったのか,さまざまな想いが駆け巡るはずです。それゆえ,引っ越しや部屋の片付けをしているときにアルバムを開くのは,作業の妨げになるので開かない方が賢明でしょう。もっとも,ほとんどの人はそれを承知でアルバムを開かずにはいられないでしょう。

人の記憶は脳の奥にある海馬が司っています。その奥から人は瞬時に自分の記憶を呼び起こすことがあります。何かの匂いを嗅いだとき,本を読んでいてふと思い出すとき,どこにどんな関連性があるのか自分でも分からないようなところから,何かを思い出すことがあります。そのメカニズムは複雑で容易に解明など出来ないでしょう。どんなに優れたメモリーでも,人のこうした瞬間的な記憶の呼び出しには敵わないでしょう。覚えようとして残されたモノではなく,経験や個人個人で無意識下で“たいせつなもの”として海馬に残され蓄積されていき,それがある日何かの切っ掛けで出現することがあります。

写真を見るときの環境や状態はその都度変わります。それが引っ越しのように環境に大きな変化があるときかも知れませんし,ちょっとした時間にふとアルバムを開いただけのときかも知れません。写真の中は永遠に変わらないのに,人は歳を重ねていきます。二度と会えなくなってしまった人がそこに写っていれば,感傷的になることもあるでしょう。一年前にあった東北の大震災後,ボランティアの人が被害のあった場所からアルバムを掘り起こしてきれいに修復したという報道を見ました。パソコンのハードディスクを修復する会社では,水浸しになったパソコンからデータを回復する作業をしたという記事もありました。その中には学校の卒業アルバムに関するものもあり,修復後アルバム作成に役だったとありました。二度と戻すことのできない時間ですが,アルバムの中には確かに失ってしまった人たちの姿がよみがえってきます。亡くなってしまった人は決して帰ってこないことは悲しい事実ですが,残された人がそういった人たちのことを忘れないことがせめてもの供養になると思います。

12/02/02
標準値

病院などで健康診断を受けると,数日後に検査結果が出ます。血液検査では中性脂肪やコレステロール,尿酸値などが気に掛かるところでしょうか。診断表には自分の数値のすぐ横に基準値が記されています。その基準値の範囲内に自分の数値があれば気にならないのですが,範囲を超えている場合はやはり心配になるものです。特に基準値より大きな値の場合の方が不安も増します。医者もその数値をもとに処方箋を決めたりします。これら基準値が健康の度合いの標準値となるでしょう。身長に対する標準体重というものもあります。特に女性にとっては気になる数値となるでしょう。電卓さえあれば手軽に計算できるBMI数値はすでに市民権を得た標準値でしょう。

中学生や高校生にとっての標準値は,学校の試験の平均点がそれとなるでしょう。成績が下位の生徒をもつ保護者はよく「せめて平均点くらいは取って欲しい」と言います。学校で真ん中くらいに位置していれば親として安心しないまでも,それほど心配する必要が無いからでしょう。生徒にとっても,試験で失敗したときには「次は平均を超えたい」と目標を掲げ,塾の先生は生徒の試験結果を訊くときに,同時に平均点を必ずといっていいほど確認します。他の生徒と比較するのに,平均点は分かりやすい目安となるのです。

一昔前に『一億総中流階級』という国民意識が広がっていました。それほど上流階級でも,あるいは収入がそれほど低くもないと誰しも感じていた時代がありました。標準的な収入を得,それほど贅沢な生活をする訳でもなく,あるいは日々の生活に困るという人も目立つような時代ではありませんでした。もっともそういった意識はいまの時代にはそぐわなくなり,富裕層と貧困層との格差が見られるようになりました。いまの時代に中流階級という言葉を聞く機会はめっきり減りました。生活における標準値というものが,以前よりもぼんやりしてきたように思います。

今年の夏にはオリンピックがロンドンで行われます。100m走や競泳などタイムを競う競技,あるいはハンマー投げのように距離で勝者が決まる競技でオリンピックに出場するためには,標準記録というものを超えなければならない場合があります。時にこの数値が日本記録よりも優れていることがあり,世界で戦う厳しさを単に観戦する側である者でさえ大変な記録だと感じることがあります。こういった場合の標準値は,平均値でないことは論じるまでもありません。国語辞典によれば「標準」は平均的であることの他,判断や行動のよりどころ・目安ともあります。判断をし行動に移すのは個人個人が決めることです。そう考えると標準値はあくまでもひとつの参考とするのがよさそうです。

12/01/01
ハビタブルゾーン

種の存続に必要な最低個体数は50から60頭といわれています。もちろん,その種によってその数は変わるのですが,科学的・統計学的にそのおおよその数がはじき出されているようです。50頭ほどの個体数があれば100年後にその種が存続する確率は90%を超えるのです。ヒトを含めすべての生物が存続できるのも,地球の存在が欠かせません。

現在,地球以外の天体に生命の確認はされていません。惑星に生命が存在するためには,恒星からの距離や大気や水の存在などいくつもの要件を満たさなければなりません。恒星に近すぎれば地表温度が高くなりすぎ,生命が存在するには厳しい環境となります。大気がなければ昼と夜の温度差が激しくなり,生命にとっては厳しい環境となります。太陽系において水星は太陽に近すぎ,また大気がほとんど無いために昼と夜との温度差が600度以上にもなります。また,金星は二酸化炭素を主成分とする厚い大気により,表面温度が470度にも達する灼熱の惑星であるため,とうてい生命が存在できる条件ではありません。木星よりも外側の太陽系惑星は,水素やヘリウムを主体とする気体で出来ているために,やはり生命が存在できる星ではありません。

地球の公転軌道がわずか2%程度ずれていると生命の存在は難しかったのではないかという説もあります。宇宙の中で生命が誕生するのに適した環境をハビタブルゾーンといいます。2011年末に地球から600光年先にある太陽に似た恒星を周回する惑星が確認されたと,NASAから発表がありました。ケプラー22bと名付けられたこの惑星は,地球以外で生命が存在する可能性があると注目されています。ただ,もし生命が確認出来その星に文明や文化があり,人間並みの知能があったとしても,お互いに通信するのには600年を要します。今日出した手紙が届くのが600年後ということになります。もしその星まで行くとしても,親子何代も命を繋いでいかなければなりません。それだけ離れた星に対して人々はなぜあこがれをもつのでしょうか。人口増加や地球環境のいまを見れば,ヒトもいつかは絶滅危惧種となるのです。新たな開拓地をいまの科学力では無理にしても,ずっと先の子孫にその夢を託しているのかもしれません。