12/12 共感と感動 11/11 ことば 10/10 素直と共感 09/09 キセキノ方程式 08/08 虚空と現実の世界 07/07  授かる 06/06 順序 05/05 整理整頓 04/04 写真 03/03 代名詞 02/02 買う時間 01/01 感謝する気持ち

14/12/12
共感と感動

会話をするときに相手が頷いてくれるか否かで話し手の調子に違いが出るようです。以前,NHKの番組でお笑いコンビがいつもと同じネタで漫才をしていました。実験はこうです。二人の間にパーティションを入れ,相手の顔が見えない状態で漫才をするのです。はじめはものすごく居心地が悪そうに二人の漫才は進みます。進行役のタレントとアナウンサーは黙って二人の漫才を見ています。漫才なのに,会場には緊張感さえ感じられます。実験は途中からパーティションを外してお互いの顔が見える状態で漫才をするようになりました。二人のいつものテンポが戻り,会場には安心感が戻りました。実験が終わったあと,コンビの一人は「途中で泣きそうになりました」と言いました。相手の表情や相づちが無い不安に,いつもの調子で漫才を進められなかったのです。

人は何かに感動したときに他の人に伝えたいと思うものです。その相手が誰でもいいわけではなく,親しい友人であったり家族であったり,あるいは大切な人であったりするでしょう。自分が感じたことを他の人に伝えたいという欲求は誰しも持っているものです。でも,もしそれを伝えられた相手が無感動であったり,あるいはそれほど感動をしなかったりすればがっかりするでしょう。もちろん感動の押しつけはよくありませんが,少なくともそれを伝えようとする人は相手も喜んでくれる,共感してくれる。そう思って伝えるのです。

感動と言うほどでないにしても,日常の些細なことでも喜びを分かち合えることは大切だと思います。綺麗いな夕焼けを見て「綺麗だね」と言い合えたり,美味しいものを食べたときに素直に「美味しい」と言える感覚が共感となるのでしょう。素敵な絵を見たときや,すばらしい音楽を聴いたときの共感はやがて感動へと変わるかもしれません。何にでも無関心で,心が動かなくなってしまうのは悲しいことだと思います。そうなればやがてその人の感動する場面は無くなってしまうのかもしれません。日々の中でのいくつもの出来事や,出会うさまざまな『モノ』たちにも何かを感じ,共感できる部分があれば,やがて小さな感動へと繋がっていくことでしょう。

14/11/11
ことば

言語は他の生物には無く,人間だけがもつ能力です。他の動物もある程度のコミュニケーションは取れるでしょうが,言語として確立されているのは,地球上では人間だけです。言語というとやや堅苦しいですが『ことば』と表現するとやさしく感じます。けれども,そのことばも使い方次第ではさまざまな“モノ”に変わります。コミュニケーションが取れるのと同時に,相手を傷つけてしまう武器にもなります。一度口から出てしまったことばは,二度と戻せません。ことわざにある「口は災いの元」を痛切に感じたことは,誰しも一度や二度,覚えがあるでしょう。あるいはいまの時代,送ってしまったメールを戻したいという経験をしたことは無いでしょうか?そこまで深刻でないにしても,ことばの行き違いであったり,ことばが足りなかったり,その逆でことばが過ぎ,関係を悪くしてしまうこともあるでしょう。ことばという人間のもつその能力をきちんと発揮できない場面が多々見受けられます。

たった一文字違うだけでも,意味合いががらりと異なることもあります。以前,こんな話を聞いたことがあります。親しい友人が,付き合っている彼のことで悩んでいて相談を受けたそうです。友人は決して見た目の良くない彼の顔のことを気にしていました。確かに『標準的』な顔立ちではなく,やや野性味にあふれるようでした。でも,傍目から見てそれほど気にすることはないんじゃないかしら。相談された相手はそう思ったようです。そこで彼女は友人を励ますつもりで,彼の写真を見ながらこう言いました。「人間の顔じゃないわ」と。もちろん本当は「人間は顔じゃないわ」そう言いたかったのです。第三者には笑える話かもしれませんが,当事者同士は限りなく気まずかったことでしょう。ことばのもつ絶妙な要素です。

けれどもことばのもつ能力はそんなに悪いことばかりではありません。また,一文字違いのように,用心し過ぎることもありません。ことばには人に感動を与えたり,安らぎを感じさせたり,笑いを提供したりしてくれるからです。歌詞に感動したり,落語の人情話に涙する人も居ます。小説を読みその物語に引き込まれ,自らに置き換えることもあるでしょう。喜劇をみて大笑いをし,リフレッシュすることもあるでしょう。愛すべき人からの手紙に心打たれ,想いを馳せることもあります。ことばのもつ能力は,その言語を自分の感情に変化させられる人間だからこそなし得る技なのです。

14/10/10
素直と謙虚

かけ算の計算は小学校の九九を基本として行います。かけ算九九を知らない人はまず居ないでしょう。2の段から始まり,9の段までを小学生の頃に暗唱した覚えはあるでしょう。「ニニンガシ,ニサンガロク,ニシガハチ,…」と続きます。思い起こせば,このあたりから算数の得意不得意が出始めるのかもしれません。すらすら暗唱できる子も居れば,なかなかうまく言えない子も居るでしょう。足し算でも繰り上がりが出てくるあたりから躓くケースが多いようです。かけ算の場合,2桁どうしのかけ算で苦戦する様子がうかがえます。そんな苦労をしたことなど,大人になった今はとっくに忘れてしまっているでしょうか。あるいは今でも夢に出てうなされるでしょうか。いやいや,そんな大人はまず居ないことでしょう。日常のさまざまなことを過ごすだけで精一杯かもしれません。

けれども,そんな昔の筆算などとうに忘れている大人でも,こんな計算方法はいかがでしょうか。たとえば「31×23」の計算をします。右上図のようにまず,左上から右下に向けて3本の直線を引きます。次に少し離れた斜め右上に,最初に書いた3本の線と平行に1本の直線を引きます。同様にして,今度は右上から左下に向けて2本の直線を,その右下に平行に3本の直線を引きます。右下図がその状態です。最初に引いた線が31を,あとに引いた線が23を表しています。平行な2組の直線は互いに交わって交点ができます。その数は左に6個,真ん中の上に2個と下に9個,そして右側には3個の交点があります。右側の数字が計算結果の1の位になります。真ん中の上下の数は足します。「2+9=11」なので,十の位の1は左の数「6」に加えます。「6+1=7」となります。もう答えはおわかりでしょうか。「31×23=713」となります。この方法なら,難しい繰り上がりなどを知らないこどもでも,交点の数を数え上げるだけでできるのです。

さて,この計算法をどのように感じましたか。「おもしろい!こんな計算方法があったのか」と思うでしょうか。それとも「こんな面倒なやり方より,筆算か電卓でやった方が簡単だ」と考えたでしょうか。教科的な勉強だけではなく,ものを学ぶときに伸びる要因に『素直である,謙虚に受け入れる』ことが大切です。新しい発見があれば,素直にその仕組みを楽しみ,謙虚に受け止めなぜそうなるのかを考察することで人は成長します。この線分を引く計算法も,その人のレベルに合わせて楽しめればいいのです。素直に感動できればそれだけでも十分です。あるいは3桁同士になったらどうなるのだろう?と発展させていってもいいでしょう。将来理系に進む意思があるのなら,なぜ交点の数で計算結果が出るのか,証明するべきなのです。学びの楽しさは,深ければいいというものではなく,個人個人のちょうど良い加減で留めておくのがいいのです。

14/09/09
キセキノ方程式

日本語の特徴のひとつに,同音異義語があります。ワープロで文章を打つときに,いくつもの候補が挙がることでしょう。たとえば『こうぎ』という言葉だけでも「講義,抗議,広義,巧技,好誼,公儀」など多数あります。我々日本人は,そうした言葉を意味を理解した上で使い分けています。「物理の講義」が「物理の抗議」とか,「役所への抗議」が「役所への講義」となっていれば,少なくとも違和感を感じざるを得ないでしょう。それだけ漢字には一語一語意味合いを持たせているのです。唄の歌詞をあえてカタカナ表記することにより,聴く人の感性に解釈を委ねる,とある作詞家が話していました。たとえば「心」という漢字を「こころ」や「ココロ」あるいは「kokoro」と記すだけで,その印象が変わるというのです。「心」の場合,通常は漢字表記が普通でしょう。せいぜいがひらがな表記止まりでしょうか。それをあえてカタカナやローマ字表記にすることにより,聞き手の自由な発想ができ,同じ楽曲でもそれぞれが自由な感じ方ができるのです。歌詞の解釈を求められた作詞家がそれに対してきちんと答えず,それぞれが自分の解釈の仕方で楽しむのがいいのではないか,そんなことを言っていたことを思い出します。

「キセキノ方程式」と聞いて,何を思うでしょうか。高校数学を学んだことのある人なら「軌跡の方程式」を思い出すかもしれません。数学における「軌跡の方程式」とは,ある条件を満たす点がどのような直線や曲線を描くかを求めるところにあります。中学数学の作図問題では「線分の垂直二等分線」や「角の二等分線」がありますが,これらもひとつの軌跡です。前者は二点から等距離の軌跡であり,後者は二直線から等しい距離にある点の軌跡です。どちらも「距離」が関連するのが特徴です。人は物理的な距離を重要視することが見受けられます。たとえば学校選びをするときに自宅から通えるか,あるいは部活動などの練習でどの程度の距離を走り込むかなど。物理的な距離以外でも,「あの人との距離」のように使う場合は,お互いの気持ちや思い方の相違など,心理的なことを表すものでしょう。

ところで「軌跡」にはほかにも「奇跡」とか「鬼籍」などの同音異義語があります。「奇跡の方程式」を思い描いた人は,いまの状況を打破したいのかもしれません。あるいはいつか自らの手で,奇跡を起こすべく何かを内に秘めているのかもしれません。人によっては「奇跡の方程式」=いつか夢が叶えられるための秘策,と捉えられるかもしれません。「鬼籍の方程式」となると,ちょっと怖い話のように感じるでしょうか?でも,別の視点から見れば,その人の一生がどのように描かれてきたのか,その「軌跡」を「鬼籍に入る」まで描かれたと考えることもできるでしょう。ことばをカタカナ表記にするだけでも,自由で多様な発想ができるのです。漢字だけではなく,日常の様々な出来事や出会うことに対して,ちょっとした視点の転換を図るのはいかがでしょうか。

14/08/08
虚空と現実の世界

フィクションは別として,小説や漫画の世界は作者の作る空想の世界になるでしょう。実在しない世界に,実在しない人物が登場して様々な人間模様を描いていきます。もちろん実在する場所が登場することもありますが,仕事場や住居などはやはり小説の中の特有のものです。こうした空間は,書き手の心の中あるいは構想の中に存在する虚空の世界なのです。読者はそこに引き込まれ,時にはそこの住人となり,自分の心情を注ぐことさえあるでしょう。感情移入しやすい人などは,物語の世界に引き込まれてしまい,抜け出すのに一苦労するかもしれません。疲れ果て,虚実の区別がうまく出来なくなることさえあるかもしれません。でもそれは現実の世界ではないのです。どんなに恐ろしい世界であっても,決して襲われることはありません。また,どんなに楽しい空間であっても,その快楽を現実のものにすることは不可能です。けれども,人間は考えることができ,創造が可能な生き物です。丸ごと現実の世界に引き出せないまでも,どこかしら自分の空間に留めることはできるでしょう。

小説家や漫画家ほどではないにしても,人は誰しも空想をし,自分だけの世界を作ることができます。ちいさなこどもが画用紙いっぱいに描く絵も,その子独自の世界観を持って表現しているのでしょう。いじめにあったこどもが,相手のしたこと,された苦しみを記す「恨み帳」などもひとつの世界です。人に話して気持ちが楽になることがあるように,書き記すことにより内に秘めるものを発散させ,大事にならないようにする効果があるかもしれません。恨み帳の中では,どんな罵詈雑言も許されるのです。ひとつの閉ざされた世界ではありますが,それがその子を救う空間であるのなら,決して否定はしません。

ふだん思っていること,考えていることを頭の中だけで思い巡らすのではなく,実際の文章に記してみてはいかがでしょうか。その形態は何でも構いません。パソコンやスマホを使ったり,鉛筆でノートに書き綴ってもいいでしょう。あるいはふだん読んでいる雑誌の空白,教科書の行間やテスト問題の裏。どこにでもその『世界』は広がっていけるのです。言語をもった唯一の生命体としての特性を無駄にせず,自分から発信していく行動をしてみれば,現実の世界でも新しい視野が広がるかもしれません。

14/07/07
授かる

こどもが生まれて親から授かるものは名前でしょう。お爺ちゃんやお婆ちゃん,あるいは親類のおじさんが名付け親となることもあるでしょうが,たいていの場合親が付けることでしょう。親はこどもの健やかな成長を願い,こどもの将来に思いを馳せることでしょう。名前にはそうした気持ちが込められているはずです。女の子の名前によく使われる「美」には容姿に対する思い以上に,心や気持ちも「美しく」あって欲しいと願っているのかもしれません。成長とともに相手を思いやる気持ちも培っていける子であって欲しい。そんな願いがそこにはあるかもしれません。自分の名前にはどんな思いが込められているのか,親が健在ならば訊いてみるのもいいでしょう。ちょっと照れくさいかもしれないですが。すでに他界しているのなら,どんな思いで親が名付けてくれたのか,思案するのもいいでしょう。漢字に含められる意味合いを考えると,そこに新たな発見があるかもしれません。ひらがなやカタカナの名前ならば,なぜそれを選んだのか,それだけでも一興でしょう。

「授かる」と「貰う」とでは意味合いが異なります。使わなくなった参考書を先輩から「貰う」ことはあっても「授かる」ことは無いでしょう。恩師からの手紙も「貰う」ものでしょう。では「授かる」とはどういったときの言葉でしょうか。三省堂新明解国語辞典によれば『かけがえの無いものをいただく』とあります。では,『かけがえの無いもの』とは何でしょうか。新明解では『それが無くなったとき代わりになるべきものが無いもの』とあります。「一子相伝」という言葉があります。芸の道を究めた親が,自分のこども一人だけにその芸を伝えることを意味します。複数のこどもが居ても,その中からたった一人だけに芸を「授ける」のですから,そこには他者が決して入り込むことが出来ない厳格な世界を感じます。親子の関係で無くても,芸や特殊な技術を師や指導者が弟子や後輩に「授ける」ことがあります。そこには自分の歩んできた道を継いで欲しいという思いがあるのでしょう。

こどもが親から最初に「授かる」ものは名前でしょうか。それは違います。最初に「授かる」のは命です。自分の歩んできた道をみて欲しい,健やかに育って欲しい。そんな願いを持っているはずです。だから名前とともに生を受けたことを決して粗末にしないでください。

14/06/06
順序

「物事には順序というものがある」と言われます。目的を急いてしまい失敗してしまった経験を持つ人も多いことでしょう。準備が十分でなかったために,途中で計画倒れになったことはないでしょうか。たとえば年末に大掃除をするとき,日常使っている掃除用具や洗剤以外に,こびりついた油を取るためのブラシや溶剤を買うこともあるでしょう。掃除を始めてから足りないものに気づき,ホームセンターに行けども売り切れたりしていて困るかもしれません。大掃除が急に決まったのならいざ知らず,たいていの場合「30日にはやろう」などと考えていることでしょうから,事前に必要なものを買い物のついでに購入しておけば済むはずです。何が必要なのかを日頃からメモに残しておけば,なおさら抜かりなくできることでしょう。結局は必要となり買わなければならないものを,ことを始めてから買うのか,その前に買っておくのか。行動は同じでも,その順序が違うだけで時間も気持ち的なことも様子が変わってくるはずです。

学校の授業は,ある種先生のパフォーマンスでもあります。それゆえ,先生のやり方次第で授業を受ける生徒の姿勢も変えるべきなのです。すべての先生に対して,同じ準備で授業を受けるということはかなりの損失になるのです。実際,意識せずにいくつかの授業で準備をきちんとしていることがあります。たとえば英語のリーディングや古典などでは,予習として単語や古語調べをしたり,日本語訳や現代語訳を作ってから授業に臨む生徒も居るでしょう。予習をする背景には,授業中に先生から当てられることが想定されていることも一つの要因でしょう。数学の授業で,解説が早い先生ならば,次の授業で進むであろう例題を解いておき,分からない箇所をはっきりさせ授業でその疑問点を解消させる受け方と,授業時にはじめて例題を読み,先生の書いた板書を必死に写しているうちに次の問題に進んでしまう。どちらの授業の受け方が良いかは言うまでもありません。事前に問題を解いておくのか,授業後もしくは試験前になって慌てて解くのか。問題を解く時間に違いはないのに,その結果には大きな違いが生じることでしょう。

教科の先生によって,予習がやりやすい先生もいれば,復習中心で調べたり覚えたりする方がいい先生も居ます。教科書を使わずに,先生独自のプリントや資料を使うような授業なら,授業を受けた後にきちんと調べたり,覚えたりすればいいでしょう。どの授業も同じように受けるといった姿勢からは,早く脱するべきです。学校の勉強ばかりではなく,仕事でも普段の生活の中でも順序を考えた行動ができることが大切なのです。

14/05/05
整理整頓

仕事や生活をしているとさまざまなものが増えていきます。仕事で必要な書類や書籍,文具類などはいつの間にか溜まっていくものです。生活の中でも郵便物や雑貨など,思いの外増えていくものです。とりあえず棚や引き出しなどに入れておいたものが増え,けれどもほとんど使わなくなってしまうものもあるでしょう。気づけば何年も使わないままほこりをかぶってしまっているかもしれません。整理整頓の上手下手は個人差があるようです。仕事場の机周りを見比べれば,その違いはある程度わかります。それも一つの個性でしょうが,ほとんどの人は整理上手な人になりたいと思うことでしょう。仕事や生活がしやすいし,他の人からはキチンとしていると見られるからでしょう。

整理整頓はそれ自体が書籍として出版されるほどで,それだけたくさんの人が頭を悩ませる問題のひとつなのでしょう。かといって,仕事や生活をする上で必ずしもしなければならない急を要することではありません。やらなければそれで済む一方で,やっておかないとだらしがないんじゃないかという,切迫感のようなものを抱かせてしまうところが厄介なのでしょう。もちろんそれを感じるのにも個人差はあり,軽度の人の机の周りは散らかっているのかもしれません。整理整頓は普段からその時々で行っていればそれほど大儀になることはありません。けれども,それがいつも出来ないところが人の性(さが)なのでしょう。

それまで積み上げておいたものを一気に整理する一つのきっかけは引っ越しでしょう。会社ならば社屋の移転,個人的なことでは転居でしょう。仕事ならばある程度の年数をもって処分するようになるでしょう。個人的なものはどこで判断するのでしょうか。十数年あるいはそれ以上の時が経た後,想い出のものを探してもどこにも見当たらない。そんな経験をした人は結構居るのではないでしょうか。いつどのタイミングで無くしたのか,思い出したところで戻ることのないのは事実です。けれども無くしてしまったのは『もの』だけにしておきましょう。それにまつわる想い出までは無くさないでください。心の中にとどめておくことがその『もの』が存在したことの証になるのですから。

14/04/04
写真

部屋の片付けや引っ越しをしているときに,昔のアルバムや写真を見つけ出して手が止まってしまった経験は誰にでもあるでしょう。当たり前のことですが,写真はすべてが過去のことであり,自分の歴史の1ページになっているのです。こどもの頃,まだ物心が付く前の,自分がその写真をいつ撮られたのかさえ覚えていないような古い写真もあれば,同級生との楽しいひととき,入学式や卒業式,あるいは結婚式など,人生の節目となる記念すべき数々の写真は,その人の歴史そのものと言えるのです。そのほとんどの写真が,自分に関係している人であったり,ものであったり,大切な場所や想い出であるはずなのです。だからこそ,引っ越しのように時間に追われている状況でも見入ってしまうのでしょう。

「歴史に学ぶ」という言葉があります。これまでに先人達が作ってきた歴史には,学ぶところが多く,それが良い道しるべになることもあれば,二度と起こしてはいけない過ちであったりします。良い出来事には学び,自身のあるいは自身の周りの人たちのために活かし,悪しき歴史には人間の愚かさを知り,繰り返さないよう肝に銘じる,それが歴史を学ぶ上でのひとつの大切なことでしょう。でも悲しいことに,歴史に学べない人はやはり存在してしまい,悲しい出来事に遭遇することがあります。

写真の中にはたくさんの人が写っていることでしょう。また会いたい人,二度と顔も見たくない人。二度と会えなくなってしまった人。人は自分の歴史の中で,どれだけ多くの人と関わってきたか,写真を見るだけでもそれは感じられるはずです。では自分の歴史を物語るひとつの写真からは何を学ぶことが出来るのでしょうか。それは今はまだ会える人,あるいは今を一緒に生きている人への思いやりではないでしょうか。いつかはみんなそれぞれの『場所』に行きます。夫婦であろうと,愛すべき親・兄弟あるいは子どもであってもそれぞれの『場所』へと道は分かれていくのです。だからこそ今そばに居る誰かを大切にする気持ちを持ち続ける,そんなことも自分史から学べるひとつのことだと思います。

14/03/03
代名詞

「代わり」ということばを聞いてどのような印象を持つでしょうか。国語辞典的には「代わること,代わる人。ある物事が果たすことになっていた役目を他の物事によって果たすこと」(三省堂・新明解国語辞典)とあります。その用例として「代わり(=代理)を勤める」といった例文があります。本来勤め上げるべき人がやむを得ない理由により,他の人がその代わりを果たす印象が強いでしょう。「課長代理」とか「代理人」などもその人物の代わりである以上,『本物』ではなくなってしまうのです。ことばのもつ意味からすると,下に見られがちになっても仕方ありません。

歴史上の人物がもし存在していないとしても,その人に代わり得る人が登場するだろう,といった話を聞いたことがあります。もし織田信長や坂本竜馬が生まれていなかったとしても,彼らの代わりとなる人間が登場するという考えです。本当にそうなるでしょうか。程度にもよりますが,絶対的に同じ人間など生まれてこないことは誰の目にも明らかです。もし信長がもう一人生まれたとしても,性格も思想も別の信長になる可能性もあります。むしろまったく同じになる方が不思議なくらいでしょう。すなわち彼らの代わりになり得る人物など決して現れないのです。もちろん似ている『誰か』の存在は否定はしません。

「代」の付く別のことばに「代名詞」があります。文法的には人を指す「私・彼女」やものや場所を示す「これ・どこ」などがあります。これも本来の主体の代わりを表すことばとなります。ところがこの「代名詞」が逆に主体を追い越してしまうことさえあります。薪を背負っている偉人と言えばたいていの人は「二宮金次郎」を思い起こすでしょう。では彼は何を成し得た人なのかを語れる人はどれくらい居るでしょうか。高度経済成長期の頃,外国から見た日本は「富士山(フジヤマ)・芸者・新幹線」などと言われたものです。当該日本人からすると,何とも微妙な気分となるでしょうが,それが日本の「代名詞」になっている一例です。けれども代名詞が何においてもマイナスのイメージばかりになる訳ではありません。昭和の時代なら「ミスター」と言えば「長嶋茂雄」をほとんどの野球ファンならイメージすることでしょう。

数学における「代数学」は,未知の数を文字で表し方程式を立て,それを四則演算を駆使して解いていきます。本来の役割を果たしている数を,文字が数の「代わり」を演じ追求していくその過程は,真実を知りたいという人間本来の欲求を満たすべく姿と等しいように思います。代役ではなく主役に匹敵する役回りを得たのです。今の自分の置かれている立ち位置を,代わりと考えるのか,それとも主役をも食いかねない存在になり得るのか。それはそこに置かれた自身の心持ち次第,それは確かなことなのです。

14/02/02
買う時間

気が置けない仲間との楽しい時間はあっという間に過ぎ,退屈な時間が長く感じるという思いは,誰しもが経験することでしょう。その昔,初めて特急列車が運行されたときに,その運賃が普通列車よりも高いことに不満をもらした人がいたと言います。なぜだと思いますか?その人は列車に乗っている時間が短いのに,なぜ運賃が高くなるのだというのです。彼にとっては電車は移動するための手段では無く,乗って楽しむためのものだったのでしょう。時間の相対的な感じ方が人によって異なる一例でしょう。

時間を知る手立てはふつう時計でしょう。時計の読み方は小学校で教わります。習いたての頃はなかなか読めない時計も,大人になれば誰にでもその時刻を知ることができます。けれども大人になっても時計計算の得意不得意はあるものです。例えば「8時37分から3時間40分後は何時何分」とか「午前11時20分発の飛行機に乗り,午後6時間10分着なら飛行機に乗っている時間は何時間何分」といった計算問題です。ただ,これらの正確な計算はともかく,時間的感覚はデジタル時計よりもアナログ時計の方が直感的に分かりやすいようです。試しに今の時刻から次の時報までの時刻がどれくらいかを二種類の時計で見比べてみてください。どちらの方がストレートに「残り時間」を感じられるでしょうか。時間の感覚というものは,子供の頃から見慣れているものに影響されやすいようです。

時間の使い方の上手下手は,それを上手に使っている人から学ぶのが良いでしょう。時間が過ぎていくのは誰にでも平等です。お金で買えないもののひとつであることは確かです。でも,普段の生活の中でもどう工夫しているかで,これから訪れる時間は自分で「買う」ことは可能です。これからの時間が電車に乗ってのんびり過ごすためのものなのか,決められた時間内できちんと処理しなければならないものなのか,その判断を見極めた上で準備をすることが大切なのです。その準備次第では,これからの時間が有効に過ぎていくのか,長く感じる退屈な時間になるのかはその人の行い次第でしょう。

14/01/01
感謝する気持ち

昨年は2020年の東京でのオリンピック開催が決まりました。日本中が盛り上がり,年末のニュースでも何度も取り上げられました。オリンピック招致のレセプションでの「おもてなし」が流行語の一つとなりました。日本人のきめ細やかなお客様を歓待する心が,オリンピック委員会に認められたのでしょう。また,和食が去年の暮れにユネスコの無形文化遺産に登録されたのは記憶に新しいことでしょう。素材を大切にしながらも,きめ細やかな技や伝統的な文化を持つ和食が,海外の人々を魅了したのでしょう。

イタリアのプロサッカーチーム・インテルの長友佑都斗選手は,ゴールを決めるたときの丁寧なお辞儀のパフォーマンスが,チームメートやサポーターから愛されたようです。長友選手のお辞儀は仲間に対する敬意と,サポーターへの感謝の気持ちが込められているように見えます。メジャーリーグのレッドソックスの上原浩治投手のパフォーマンスも去年は話題となりました。抑え投手の彼は,打者を封じ込んだあとにチームメートとハイタッチをします。自分の仕事をした雄叫びの代わりであり,やはり長友選手と同じように,仲間への敬意と感謝がそこにあるのは見て取れます。

日本人は外に向けた感謝は得意のようです。けれども身内に対するそれはどうでしょうか。親や兄弟姉妹に対しては希薄になっていないでしょうか。父の日や母の日は好きじゃないという意見を聞いたことがあります。そのときだけ感謝するのではなく,常日頃から親を敬う気持ちを持ち,感謝する気持ちが大事だというのです。子供は親がしてくれたたくさんのことに対して,一生掛けたって同じだけの恩返しはできないでしょう。生んでくれて,大きくなるまで育ててくれたことと同じだけのことが子供には到底出来ないのです。生まれて何年間かは片時も親は子から目を離さない。それだけでもどれほど大変なことでしょうか。親のしてくれたことと同じ恩返しをすることは不可能でしょう。それでも親に対する感謝を持ち続けること。それが大切なのです。