12/12 記念日 11/11 クレイマー 10/10 こどもへの教育 09/09 2020年 08/08 手紙 07/07 実験するこころ 06/06 オリンピック 05/05 印刷という発明 04/04 不可能の証明 03/03 三寒四温 02/02 予算と決算 01/01 案内板
13/12/12
記念日
一年の中には祝日が何日もあります。「こどもの日」や「勤労感謝の日」。「憲法記念日」に「海の日」,「文化の日」など,これらはそれぞれに記念日が絡んでます。こどもの日は5月5日がもともと端午の節句であり,こどもの健やかな成長を願って昭和23年に制定されました。海の日は比較的新しい祝日で,海の恩恵に感謝する日として平成7年に制定されました。当初は7月20日でしたが,その後ハッピーマンデー法により,7月の第3月曜日に変更されたことは記憶に新しいと思います。憲法記念日や文化の日は憲法や法律に関わる記念日として,戦後に制定されました。いずれの祝日も,何かを祝ったり繁栄を願う目的で作られました。いわゆる記念日なのです。
こうした国民的な記念日とは別に,個人的あるいはグループ・団体的な記念日を多くの人たちは持っているでしょう。夫婦ならば結婚記念日,学校や会社なら創立記念日などが代表的でしょうか。誰もが持っている記念日として誕生日があるでしょう。この世に生を受けた日なのだから特別な日であるのは言うまでもありません。その対極的な日が命日でしょう。当事者にとっては悲しい日となるでしょうが,長い目で見れば亡くなった人のことを偲ぶ大事な日となります。人は亡くなった人の誕生日は忘れても命日は覚えているものです。生きているときよりも,死んでからの時間の方が長いという考え方もあります。残された周りの人が覚えている限り,その人の本当の死は訪れないという考え方もあるようです。それゆえ,命日も大事な記念日と捉えられます。
記念日はそれぞれの人が心の中に持っていることもあるでしょう。祝日でも創立記念日でもない,あるいは誕生日でも命日とも異なる,その人<あるいはそれを共有できる人>にしか存在しない日がきっと誰にでもあるものでしょう。そんな密やかな記念日は,甘く切なく儚かったり,大切に仕舞っておきたい日なのかも知れません。日々の忙しさに流されながらも,大切な記念日はきちんと祝うことができる。そのくらいの余裕を持てるこころが大切だと思うのです。
13/11/11
クレーマー
商売をしていると必ずといっていいほどクレーマーが存在します。飲食店ならば「味が悪い」とか「接客態度が悪い」果ては「何でこんなに高いのか」など,店側からすればかなり無理難題を言う客も居るようです。台風や地震などでダイヤに乱れが出たときに,駅員に食って掛かる人を見た経験はないでしょうか。鉄道会社に不備があったのなら致し方ないところですが,それが自然災害ならば,鉄道会社はもとより駅員には何の非も無いはずなのです。その人はたまたま急いでいたのかも知れません。あるいは偶然虫の居所が悪かったのかも知れません。もちろん酔っ払っていたとしたら論外ですが。いずれにせよ,このケースでは過剰なクレーマーと言わざるを得ません。
こうした苦情をどのように捕らえるかは,その会社や店によって対処の仕方は異なるでしょう。あるいは苦情を直接受けた人によって,どんな風に感じたかに違いが生じることでしょう。苦情もある程度許容できる範囲ならば,その内容を仕事に活かせることができないかと前向きに捉えることが大事だと思います。そこに商売の新しいヒントが生まれるかも知れないからです。味が悪いのならば,客がどんな料理を望んでいるのかを考え,接客態度の悪さが本当ならば,店員の教育をし直す必要があるはずです。そこに改善の余地があるからこそ,お金を払った客の目には十分でないと映ったのですから。人から非難されて,落ち込んだりくよくよしても新しい発見は出来ないのです。もちろんそのクレームの度が過ぎる場合には,しっかりした態度で応じるべきでしょう。
さて,こどもの勉強に対しての一番のクレーマーは誰でしょうか。多くの場合それは親でしょう。その言葉に素直にこどもが耳を傾けることが出来るか,あるいは単にうるさい「小言」として捉えられてしまうか。それは注文をつける側の言い方や,接し方に掛かってくるのではないでしょうか。こどもにとって改善の余地のある提案が出来ているでしょうか。あるいは無理難題を押しつけているクレーマーになっていないでしょうか。こどもが前向きに捉えることが出来ることばを持つべきは親の方です。何よりも感情的なことばは,親子といえども伝わることはないのです。
13/10/10
こどもへの教育
末っ子の大学への進学が決まると,子育てから続いた親から子への一つの義務が完了し解放されることを感じる母親は多いことでしょう。それまでの長いこどもへの教育が,大学進学で一段落したと捉えるのはもっともな感情だと思います。大学まで行けば,あとは自分のことは自分でやっていきなさい,そう思うことでしょう。実際にそれが当たり前だと思いたいのですが,いまの世の中はなかなかそうさせてくれないようです。
大学を卒業しても,必ずしもすぐに就職できる状況ではないからです。就職できたにしても,数年であるいは早いときには一年以内に離職してしまうケースが多く,親としても決して就職できたからといって,安心できるとは限らないからです。親の世代の常識であった就職→結婚→出産・子育てという流れは,いまの時代それほど当たり前のことではなくなってきているようです。「我慢が足りないからだ」と叱る父親が居れば「もう少し頑張れば」と諭す母親も居ることでしょう。親の時代には見えにくい何かがいまの若い世代にはあるのかも知れません。あるいは『いまの若い世代』というひとくくりではなく,個人個人が抱える問題があって当然だと思います。子離れできないと思うのではなく,親子で一緒に解決をしよう,と考えることが必要なときもあることでしょう。子離れできない親の存在は知られていますが,それとはまた別の次元の問題だって存在します。親がこどもを思う気持ちは何歳になっても同じものでしょう。こどもが親になる,すなわち孫が生まれその孫が成長していった後にしても,親にとってこどもはこどもなのでしょう。その逆も真で,こどもにとって親はいつまでも親なのです。支え合っていける繋がりを持つのが家族だと思います。
さて,転じていまこどもへの教育真っ最中の親の目には,少し先輩の親たちの姿はどう映るのでしょうか。こどもへの教育が熱心過ぎたり,逆にあまり関心を寄せていないなどさまざまでしょう。親の期待通りに成長している子も居れば,どうして言うことを聞いてくれないのだろうかと悩んでいる親も居るのはいつの世も常です。こどもの育つ環境は皆異なり,こどもへの教育のベクトルもそれぞれ違う方向を指していることでしょう。子育てにはマニュアルが存在しないのです。人は自分の育ってきた過程をもとに行動するものです。こどもへの教育は,いま目の前にしていることで手一杯かもしれません。けれども,こどもが成長していった少し先のことを見ることができる,そんな大局観を持てる余裕がときには必要だと思います。
13/09/09
2020年
2020年のオリンピックの開催が東京に決まりました。日本時間では日曜日の早朝に発表があったにもかかわらず,多くの人々がそのときを待っていたようです。関係者はもちろんのこと,直接関係のなさそうな人たちが,サッカーの国際試合観戦さながらに集い,その経緯に固唾を飲んで見守っていた映像がテレビで流れていました。前回のロンドンオリンピックでの盛り上がりもあってか,低かった国民からの支持率が上昇したのが後押しのひとつにもなったようです。
東京での開催が決まったのと同時に,アスリートたちへのインタビューが次々と行われていました。ほとんどが笑顔で東京開催を喜び,その選手自身のオリンピックの出場がどうなるのか,インタビュアーが気に掛けていました。あるいは選手自身が名乗りを上げるなど前向きな発言もありました。一方,2020年には選手としてのピークを過ぎている,あるいはすでに引退しているであろう選手は,自身の出場のことに触れるよりも,後輩たちへのエールが多かったようです。自国開催で活躍したいと願うのは,その競技で突出している選手ならば,あるいはそうでない選手でも当然のことでしょう。随分前に引退した解説者などは自虐的に「その頃まで生きていられるだろうか」などと言っていました。
東京オリンピックが決まってから選手だけではなく,一般の人たちも2020年に「自分は何歳になっているかしら」と計算したことでしょう。そしてそのときの自分がどうなっているのか,その考えに及ぶのは自然なことだと思います。それは7年という歳月が,それほど遠い未来でないのと同時に,すぐにやって来る時間でもないからです。いま中学生・高校生ならば競技に出場する選手たちと同じ世代が多くなるので,共感する部分が多いでしょう。あるいは彼ら自身が競技に参加しているかも知れません。20歳から30歳代なら就職や結婚,出産などもっとも変化に富んだ時期を過ごすことでしょう。40歳代は男なら働き盛りとなり,仕事に対して責任の重くなる時期でしょう。母親は子育てを終え,ゆっくり過ごせる時間を得られるかも知れません。50歳代以上はそれまでの人生を振り返りつつも,余裕をもって競技を楽しめる,そんな時間を過ごすことでしょう。そんな誰もが描きやすい未来図を,7年後に東京で行われる二度目のオリンピックは可能にしてくれるのです。
13/08/08
手紙
人が人に気持ちを伝えるにはいくつかの方法があります。ヒトは言語を司るので,直接ことばで伝えることがその最たる手立てでしょう。けれども,ことばの行き違いで誤解が生じたり,伝えたいことの真意が曲がって伝わってしまうこともあるでしょう。勢い余って言い過ぎた,という経験は誰しも持っていることでしょう。一度口から出てしまったことばは戻せないのです。どんなにことばを尽くしても100%相手に気持ちを伝えることは不可能なことです。それが分かっていても,人は接点を求めようとします。
手紙は相手に思いを伝えるのにもっとも適した方法でしょう。自分の気持ちを確かめながら,相手のことを思いそれをことばという形にして表すのですから,相手にその思いが伝わらないはずがありません。手紙を書いている時間は,手紙を送る人のためにその時間は占拠されます。だから,手紙はそれ自体だけではなく,書いている時空も含めて相手に渡るのだと思います。
年賀状はイラストや写真などと共に,文章も印刷されたものが多いですが,そこにひと言でも直筆で記してあれば貰った方は必ず読むでしょう。印字された文章は他の人にも同じように宛てられたものに対して,直筆の文字にはその人の思いが送った相手限定で記されているからです。ほんの短い文であっても,その文は自分へのメッセージであるのだから,読まない理由は無いのです。自分に宛てられた手紙でもないのに,その手紙に感動することもあります。結婚式で花嫁が両親に宛てた手紙などがその最たるものでしょう。花嫁が手紙を読み上げると,多くの来賓は涙します。それは花嫁から両親への気持ちが強く込められているからでしょう。想いの強い手紙,すなわち気持ちの込められたことばにはそれだけ大きな力があるのです。ことばは唯一,人だけが持つ大きな力です。だから,使いようによっては相手を励ますことも出来るけれども,傷つけてしまうことだってあるのです。
メールが意思伝達の主流となっている昨今。たまには相手のことをゆっくり考えながら手紙を書いてみるのはいかがでしょうか。恥ずかしさが手伝って臆するかも知れないけれども,きちんとことばにすれば必ず相手に気持ちが伝わるはずです。
13/07/07
実験するこころ
家庭でできる実験は,昔から学習関連の参考書や雑誌などに掲載されていました。教育テレビなどでも,必要なものや手順,注意事項などを動画で紹介してくれることもあります。簡単な実験として例えば使い終わったペットボトル(できれば2リットルの大きなもの)を2個用意し,それらに水を入れます。次にペットボトルの側面に針で穴を開けます。穴の位置は1個は上方に,もう1個は下方に開けます。ふたを閉めずにそのまま放置すると当然水が流れ出てきます。その勢いの差を観察すると,どんな違いがあるでしょうか?実験はすぐに完了しますが,水の勢いに差が出たのはなぜなのか,もっと違う場所に開けたらどうなるのか,2箇所開けたら上下のどちらの方が遠くまで飛ぶのか,などさまざまな疑問や新たな実験が考えられるようになるでしょう。そのときすぐに実験するのではなく,どうなるのか予測を立てるのも楽しいでしょう。予測をし,その実験をして自分が立てた仮説が正しかったときの喜びは,こどもにとって大切な経験となることでしょう。
小学校の理科で定番実験として,電池の繋ぎ方と電球の明るさに関するものがあります。この実験は誰もが一度は経験したことがあるでしょう。直列に繋げば電球は明るくなり,並列ならば暗いけれども電池は長持ちする,そんな法則を小学生は鵜呑みにして覚えてしまうかもしれません。直列だとなぜ明るいのでしょうか?電流の流れ方は目に見えないだけに実感しにくいものです。けれども水の流れに例えれば,誰の目にも一目瞭然です。ペットボトルほどは簡単にいきませんが,家にあるものを工夫して作ることによって,電流の流れが目で確かめられるのです。直列と並列を水の流れで実験するのは,さすがに小中学生には難しいかもしれませんが,そこは大人の知恵を加えてあげれば良いのではないでしょうか。実験する気持ちの手助けだけしてあげればいいのです。
理科の勉強は『なぜだろう?』と思い,その理由を考え突き詰める心が大切です。インターネットに精通している人が「検索をするな」と以前言っていたことがあります。調べ物を検索して,そこに記されているものをただ読んでおしまい。そんな使い方をしていると,物事の本質を見失ってしまうと言うのです。何でもすぐに人に聞いたり書物で調べるのではなく,まず自分で実験できるモノは試してみる,そんな考え方を大切にしたいものです。長い夏休み,こどもと一緒に『なぜ』という時間を共有するには十分時間があるはずです。
13/06/06
オリンピック
今年になってオリンピックに関する話題がいくつも賑わしています。夏のオリンピックは去年終わったばかりなのですが,それ以外のことで新聞やテレビなど,報道機関で取り上げられています。そのひとつが7年後の開催地についてです。ご存じのように,日本からは東京が開催地の候補として残っています。招致合戦も白熱しているようで,都知事の一挙一動が注目を浴び,その発言に問題が生じるような出来事もありました。国を挙げて,これまで活躍した選手も招致活動に乗り出したり,開催地の地元住民の支持率アップなどに,どの開催国も躍起になっているようです。インフラ整備や誘致活動などに多大な費用が掛かるにも関わらず,開催地となるための知恵が絞られています。競技に関わる選手は当然でしょうが,自国でオリンピックを行いたいと考える人がそれだけ多いのです。
さて,騒がれているもう一つの話題は,その2020年の開催で実施される競技のことです。これもご存じの方がほとんどだと思いますが,レスリング競技が最近になってオリンピックから除外されました。その復活をするために,レスリング界全体で活動していることもよく知られています。先日ロシアで行われた国際オリンピック理事会では,レスリングが実施競技として残りました。それ以外には野球・ソフトボールとスカッシュも残りました。日本人にとってレスリングはメダルを多数獲得できる競技のひとつなので,候補に残ってよかったと思う人が多かったと思います。また,野球やソフトボールもこれまでの実績があるので,やはり同様に感じる人が居たことでしょう。けれども誘致活動あるいはこれらの競技に関係する人たちの言葉を聞いて驚いたことがあります。
オリンピックに出るために,いまあるルールを大幅に変えても構わない,と言った発言です。オリンピックは20世紀終盤からそのショー化が進みました。そのため,世界の多数の人に見て貰うといった傾向にあるようです。競技時間が長い,ルールが判りにくいなどの理由で競技自体の本質に関わるところまで変えなければならないと考えているのが現実です。派手な投げ技を優先したり,9回まであるゲームを7回にする。アウトカウントを1つ減らす考えすらあるようです。それは本当にレスリングなのでしょうか。私たちが見てきた野球なのでしょうか。もはや別の競技でないでしょうか。長年培ってきた戦法やその競技の醍醐味を台無しにしてしまうのでないでしょうか。こうした競技に携わる人たちは,自分たちの競技に対する矜持をもち,これだけは譲れないという姿勢を示すべきではないかと感じます。
13/05/05
印刷という発明
パソコン雑誌にはよく,昔の思い出の写真や録音・録画したテープのデジタル化の記事が見られます。フロッピーディスクに保存したデータのバックアップなどの記事もあります。テープにしてもフロッピーディスクにしても,いずれは劣化してしまいデータを読むことができなくなってしまいます。そうなる前にバックアップを取るということです。それ以前に,それらを読み取る機器が無くなってしまう恐れがあります。一時期,レコードプレーヤーがほとんど市場には無くなったこともありました。カセットテープは細々と販売されているようですが,フロッピーディスクなどは,いまの高校生ともなると教科書で教わる程度の存在になってしまいました。安く使いやすいものが出れば,流れがそこへ行くのは自然の理にかなっているのでしょう。
昔の何かの広告のキャッチコピーに,CDを手にしたタレントがはるか未来にこれを手にした人たちはどうやって音楽を聴くのだろうか,といった内容のものがありました。現代においても再生が難しくなってしまった記憶媒体はかなりあります。例えば一昔前に作成したワープロ専用機のテキスト文書や,VHSやベータといったビデオテープなど。それらの機器を手放してしまった人にとってはも早困難極まりないことでしょう。データを持っていても出力できないもどかしさが残るばかりです。頻繁に変わってしまう記憶媒体に,その都度新しい機器を買い求めるような昨今,遠い未来の子孫などにはどうにもその方法を見いだせないことでしょう。
紙の媒体は,やはりその劣化はありますが,入力されたデータを何の媒体も経ずに出力できるところにそのすばらしさがあります。年代によるさまざまなすぐれた発明はありますが,人類にとっての印刷技術という発明は未だにそしてこれからもこれを上回る発明は無いでしょう。文化や文明は人から人に伝わることに大きな意義があります。いまではデジタル書籍もだいぶ数が増えてきましたが,紙の質感と匂いを感じながらページをめくる感覚は,本を読むばかりだけではなく,辞書や字典を調べる楽しみにもあるでしょう。あるいは古本などには以前その本を手にした人の思いが含まれることもあり,その重みは本のそれだけではないはずです。
13/04/04
不可能の証明
小学生で学んだ算数は,中学生になると数学に変わります。小学生までは「つるかめ算」とか「旅人算」など面積図や線分図を書いて工夫しながら解いてきました。ところが中学生になるとどの問題も,求める値をxという文字に置き換える「方程式」で解くようになります。中学受験の参考書には多数の「○○算」の解法が並んでいたものが,数学では方程式に統一されてしまいます。それをどう受け止めるかは,学んでいくこどもたちに依るものでしょう。はじめから方程式のやり方を知りたかった,と思う生徒もいれば,面積図や図表で解いた方が簡単だ,という意見もあります。さらに学年が上がりその後もずっと面積図で解いていく訳にもいかないでしょうが,問題解法の道筋は一つではないので,そういった考えを持ち続けることは大切です。
数学と算数の大きな違いの一つに作図問題があります。「コンパスと定規を使って,角の二等分線を書きなさい」などが典型的な例題でしょう。ここでコンパスは『与えられた点を中心とし与えられた半径の円をかく』ためだけに,定規は『与えられた2点を通る直線を引く』ためだけに使うとされています。コンパスはある一定の距離(長さ)を取ることに使えますが,定規は直線を引くだけで,定規に記されている目盛りで長さを測ってはいけません。このようなルールに則った作図は,学年の上下を超えて学ぶことが出来ます。また,計算問題や方程式あるいは関数などが苦手でも,作図なら得意という生徒も見掛けます。数学の単元でありながら,数学的な計算力をあまり必要としないところが面白いのでしょう。確かに作図の中にはあまり数字が出てきません。
作図には可能なものと不可能なものがあります。三角形の外接円の中心を求める作図や,正六角形は作図可能ですが,任意の角の三等分線や,正九角形は作図できません。有名な作図不可能な問題として「与えられた円と等しい面積をもつ正方形の作図」問題があります。数学の場合,不可能であるのならそれを証明しなければなりません。こうした証明は中学生にはかなり難しく,無理に理解しようとしないことです。不可能であることを知っている出題者はそのことを告げなくてもいいでしょう。考えることの方が大事なのです。作図は数学では「幾何学」に分類されますが,作図不可能の証明には「代数学」である方程式の理論を使わなければなりません。まったく違った分野の考え方を持ち出す発想は,数学を学んでいく段階で養えばいいのです。それよりも,基本的な作図の方法を学び,どうやったら正五角形がかけるのか,そんなところから楽しむのがいいのです。
13/03/03
三寒四温
人は生きている間にいくつもの楽しいことや悲しいことに出会います。楽しいこと嬉しいことには,試験に合格する,子供が生まれる,出世するなどがあります。一方悲しいことには,怪我や病気をして入院する,肉親を亡くす,仕事がうまく行かないなどでしょうか。人にとって最も喜ぶべきことはこの世に生を受けたことであり,最も悲しいのは死を迎えるときだと思います。生と死がその対極にあるかどうかといった議論もありますが,それはいまは考えないことにします。
勝ち組・負け組といった言葉があります。差別用語のようで個人的にはあまり好ましく感じませんが,実際に存在する概念です。この言葉,一般的には仕事で成功したか否か,あるいは収入の違いなどで使われています。仕事の成功の成否は必ずしも簡単ではありません。傍から見ると失敗であっても,実際にそれに立ち会った人がうまく行ったと感じるのなら,それは評価に値するでしょう。逆に,誰が見ても明らかに成功していても,それに満足を感じない当事者だって居るはずです。収入に関してははっきり数字で示せばそれで済むでしょう。けれども収入が高いからといって即勝ち組と言っていいのでしょうか。自分のやり甲斐のあることに携わっていることに価値があると感じる人も居ます。
3月になると寒い日と暖かい日が混ざりながら徐々に春を迎えます。いわゆる三寒四温です。この言葉は3人が寒いと感じ,4人が暖かいと感じる日がやって来るから,といった本来の意味とは視点を変えた考え方をする人も居ます。ちょっと面白い発想だと思いますが,的を大きく外しているとも思えません。「冬来たりなば春遠からじ」という言葉があります。寒い冬が来ても,その先には暖かい春がやって来るという意味があります。人生の中でも厳しいことばかりでありません。その先に希望の持てる明るい兆しが見えるかも知れないのです。もちろんいまがどんな状態なのか,それを見失わないことも大事です。長い目で見たときに,いまが上り坂なのか下り坂なのか,自分の立ち位置をしっかり見極める大局観も必要です。
13/02/02
予算と決算
食事の準備にかなりの時間を掛けたのに,食べる時間はそれに比べると非常に短いことがあります。それが自分で作って自分で食べるのならまあ仕方ないにしても,誰かのために一生懸命作ったのに,その思いが伝わらずわずかな時間で食事を済されてしまい,がっかりした経験をしたことはないでしょうか。食事において準備に掛ける時間と,それを食してしまう時間はほとんどの場合前者に多くの時間を割くことでしょう。では,食後の片付けはどうでしょうか。これはさすがに食事をしている時間よりは短いでしょう。
大学の授業に対する単位の説明ではよく「講義は準備と講義(授業),その後の復習があるので一時限で四単位とする。実験は大学内の設備を用いるので予習・復習が困難なため,一時限で一単位とする」と説明されます。ほとんどの理系の学生にとってこれは素直に受け入れられることではないでしょう。授業に関しそれほど熱心に予習する学生がそれほど多くないでしょう。それが専門分野ならいざ知らず,一般教養で予習する学生は果たしてどのくらいいるか疑問です。その一方で,実験は確かに予習は難しいかもしれませんが,実験が伸びてしまったりあるいは実験後のレポート提出で苦労した学生は多いことでしょう。授業と実験に関しての単位は,大学の設定の仕方と学生の感覚にずれがあるようです。そこには準備に要する時間よりも,その後に関連する労力や時間にその要因があるのです。
準備とその後のケアは,対象となるものによりそれに掛ける割合は異なります。食事と大学の授業を比べるだけでもその違いは分かることでしょう。ふだんの生活の中で,勉強や仕事において自分はどこに重点を置いているのか考えてみてください。学生の授業においても,どれも一様ではないでしょう。専門科目と一般教養での違いはもちろんあるでしょうが,同じ専門分野であっても講義と実験ではその差があるのです。以前,国会で決める予算では多くの時間を掛けるのに,予算がどの程度その通りに使われたかあるいは修正するべき点はなかったか,といった結果に対する検討が貧弱であると言っていた論客が居ました。予算に対して決算に掛ける割合が少ないということです。個人に当てはめれば,自分が計画して行ったことに対する反省でしょうか。計画そのものの反省と,それに掛けた準備や実践,後処理など正しく行われたのか。中学生や高校生の頃に,学校の定期試験をやり直した経験がある人は,心当たりがないでしょうか。そういった時間は決して無駄になりません。
13/01/01
案内板
見知らぬ町を訪れたとき,目的地に辿り着くためにはどうするでしょうか。初めて一人で尋ねるのならば,出掛ける前に事前に地図やガイドブックなどで下調べするのが普通でしょう。旅行をするときなどは,そうした準備する時間が楽しいものです。いざ旅行に行ったときにも,仕事や要件があるときと異なり,その目的が絶対的に達成しなくても構わない種類のものならば余裕をもって行動できるものでしょう。それでも道に迷ったり,目的地の所在が分からなければあらためて地図で調べたりガイドブックに頼ることでしょう。最終的には地元の人や他の旅行者に訊くという手段もあります。これが仕事や冠婚葬祭などで出席する類のものの場合は,決まった時間までに必ず到着しなければなりません。ものによっては絶対に遅れられないことだって有るでしょう。そういうときは,当然早めに出掛けるのが常識でしょうが,いつどんなときでもそれが100%できるとも限りません。
観光地にはさまざまなところに案内板があります。「○○岬まであと12km」とか,「○○公園第2駐車場は右折」など。店内や旅館内にある定番の案内板といえば「非常口」と「トイレ」の場所でしょうか。この手の案内板は,誘導してくれるのと同時に訊かれるであろうことに対する予防線でもあるのでしょう。渋滞を緩和したり,あるいはいちいち店員に非常口やトイレの場所を訊かれていたのでは仕事に支障を来すこともあるでしょう。
初めて訪れる場所で地図を広げるまえに,目的地の案内板があればどれだけ助かるでしょうか。地図を見ることが苦手な人だって居るし,何よりも案内板の指す方向にしたがえば目的地にたどり着けるのです。地元の人に訊くのも,その人が案内板の役を担うわけで,これほど確かなことは無いでしょう。案内板にしても地元の人にしても,それはすでに知っている人の知識があとから来た人に伝えられることになります。ちょっと大袈裟になりますが,先人の教えを請うことになります。先生が生徒に教科内容を教えるのが授業であるのなら,大人がこども達の模範となりその姿勢を示すことは,大人がこどものための案内板の役を演じるのに似ているのではないでしょうか。