12/12 科学する心 11/11 肌で感じる 10/10 役割 09/09 隠し球 08/08 古道具 07/07 おまじないのことば 06/06 人工知能とロボット 05/05 対角線 04/04 試験勉強と時間 03/03 分岐点 02/02 交わる平行線 01/01 ご馳走

17/12/12
科学する心

ニュートンの逸話として,リンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力を発見した,というものは多くの人が知っていることでしょう。その話が本当にあったのかの真偽はともかく,万有引力の面白さを引き出すのには十分説得力があります。物体が地面に落下するという当たり前のことを当たり前と思わないところに,鋭い洞察力があります。「リンゴが地面に落ちるのなんて当たり前」などと思った瞬間,新しい発見が出来なくなってしまうかもしれないのです。

楕円体のほぼ近い卵は,その表面が比較的滑らかなため,テーブルの上に置くとその重心から横たわるようにして安定します。この卵を立てておくことは可能なのか?アメリカ大陸を発見したコロンブスは,大陸など誰でも発見できるものだと揶揄されました。それに対して,卵を立てることを試みさせ,出来なかった後に人びとの前で卵の尻をつぶして卵を立ててしまった逸話も有名です。誰もが出来そうなことでも,最初にするのは難しいということの例えです。けれども本当につぶさなければ卵は立たないのでしょうか。物体には重心があり,その重心の真下に支点を位置することで『安定』が得られます。生卵を立てるためには,その重心を手の感触で測り,卵を支えられる位置を見極める観察力と卵を立てるまでの集中力が必要です。

観察となると,遺伝の法則を確立したメンデルの右に出る人はそうそう居ないでしょう。メンデルはエンドウマメの交配実験を実に15年もの長い年月を掛けて研究しました。植物の生長を待たなければ結果が得られないこうした実験には,時間と根気と優れた観察力や洞察力を必要とします。すぐに結果を求めてしまう傾向にある今のわが国の大学では,難しい注文かもしれません。メンデルにしてもきっと何度も失敗があったことでしょう。けれども彼を研究から見放さなかった要因のひとつに,遺伝の研究への飽くなき探究心があったのでしょう。

東京文京区には,東京大学大学院の施設である小石川植物園があります。都心にありながら広大な面積を有するこの植物園には「ニュートンのリンゴ」と「メンデルの葡萄」が園内の東寄りにあります。ニュートンのリンゴの木は,彼の生家にあったリンゴの木の接ぎ木により分譲されたものです。国内にはいくつものニュートンのリンゴの木がありますが,そのもととなったのはこの植物園の木だそうです。メンデルの葡萄は彼の石像を建立するときに,日本の学者の募金が縁で記念品としてメンデルが実験で使った葡萄の枝が贈られました。万有引力は今から約350年前に発見されました。メンデルの葡萄は150年前のものです。それだけ昔のリンゴの木や葡萄が未だに日本で存在していることに驚かされます。悠久の昔に想いを馳せるタイムカプセルのようです。科学は時代を超えて私たちにたくさんのことを教えてくれます。こども達の科学の芽を育てるのも枯らしてしまうのも指導する先生です。こども達のキラキラした目と,科学する心の芽を育てる指導者は,その大役を感じ責務を果たすべきでしょう。

17/11/11
肌で感じる

色はヒトの目によって認識されます。もちろん他の動物も色は認識できるでしょうが,言語として色を区別しているのはヒトだけでしょう。ヒトに見える光の波長は限られています。光と同じ分類に属するものに電磁波があります。いわゆる電波もあればレントゲンなどで使われるX線や放射線治療のガンマ線なども電磁波のひとつです。もう少し身近なものなら,リモコンやサーモグラフィーに利用される赤外線,夏場に気になる紫外線なども電磁波です。波長で捉えた場合,長いものは電波の長波は10kmを超えるものがある一方,ガンマ線はナノメートルの1000分の1以下のものまであります。光はその中のごく限られた波長の中に存在します。

一般的に色の認識は視覚,すなわち目で行います。「黒髪がきれい」とか「抜けるような青い空」といった表現はヒトの目によってそう見えるものを表現しているのです。空が青いのはその色を「青」と定義したからであって,「青」という言葉がその色を表す言葉なのです。少しややっこしいです。つまり青く見えるのは光の中の青色だけを空が強く反射しているからなのです。白はすべての色の要素を反射し,黒はその逆にすべての光の要素を吸収してしまいます。ヒトの目はそれらを認識しているに過ぎないのです。同じ電磁波の仲間である電波や赤外線,紫外線はヒトの目で見ることは出来ません。それだけの機能をヒトの目は果たせないのです。

色として認識できるのは目だけでは無いという研究が成されているようです。ではヒトのどの器官で認識できるのでしょうか?それは皮膚だそうです。しかも皮膚は目では認識できない赤外線や紫外線を認識しているという説があります。着る服によって皮膚がその色を認識し,ヒトの行動に影響をおよぼすことさえあると言います。スポーツ選手が大事な試合のときに「勝負パンツをはきました」と耳にしたことがあります。単なる験担ぎかも知れませんが,それをはくことによって気持ちが昂ぶるのかも知れません。還暦には赤いちゃんちゃんこを贈ることが定番です。これは還暦を迎えた人に「生まれ変わり,新しい寿命を授かった」という意味を込め,いつまでも長生きして欲しいという願いから赤いちゃんちゃんこを羽織って貰うようになったようです。こうしたことの効用がどれくらいあるかを計り知るのは難しいでしょうが,多くの人がそうしているのだから説得力はあります。着る服をあれこれ悩むのは女性の方が多いようです。それだけ女性は色に対する感情が男性よりも強いのかも知れません。あるいは気分を変えるのが上手なのでしょうか。いずれにせよ,そうした楽しみ方や気持ちの切り替え方が出来るのは,心に余裕があるからだと思います。

17/10/10
役割

人は物事に順位を付けることが基本的に好きなようです。特にスポーツにおいては順位を付けることにより勝敗を決することがあります。プロ野球のペナントレースは勝率によって順位が決まります。そのルールは絶対的です。短期的なリーグ戦では,事細かに勝敗を決めるルールが施され,その結果で順位が決まります。サッカーは試合で決まらなければ,ペナルティーキックで勝者が決まります。採点競技などは,小数点以下何位で決まるとか,タイム競技では100分の1秒で決することもあります。そんな中,高校ラグビーでは同点で終わった場合,くじ引きで次に進むチームが決まります。この場合,勝者を決めるのではなく,次の試合に進むチームを決めるためのくじ引きとなります。地方予選の決勝戦ならば,両校優勝となります。ラグビーのノーサイドの精神がうかがえます。

順位を決めるものは他にもあります。学校の成績もそのひとつでしょう。学校にも依りますが,厳密に順位を決める学校があります。競争意識を植え付ける,順位により進学できる学部や専攻が決まる。さまざまな理由で順位が付けられるのでしょう。生徒にとって学校の成績は重要で,それを気にしない生徒は希でしょう。保護者ともなればさらに気に掛けるかもしれません。こどもの成績に一喜一憂し,わが子の成績如何で進学の行方が決まるのならば,気にするなと言う方が無理な話なのです。こどもの成績意に介さず,という親もこれまた希でしょう。ひとつの学校,ひとつの学年には必ず成績が上位の生徒と,下位の生徒が居ます。これは自然の摂理でしょう。難関校と呼ばれる学校でも,まったく受験に関係ない公立の中学校でも,上位の生徒も下位の生徒も居ます。全員が横並びなどまずあり得ないでしょう。それは世界中のどの場所でもまったく風の吹いていない時間がないのと同じなのです。

もし下位の生徒がこぞって学校を辞めたとしたらどうなるでしょうか?そこに新たな序列が生まれ,新しい下位の生徒が現れます。結局は『そこに居る誰か』がその役割を演じざるを得ないのです。その役割を今押しつけられていると感じるのなら,それを跳ね返そうという気持ちがあるでしょうか?今のままでいい,自分のポジションはこの辺りなのだから。そう決めつけていないでしょうか?誰かがするその役割をあえて自分が背負うのか,あるいは抜け出そうとする意欲があるのかはその人の資質に関わることです。ただ間違わないでください。勉強の出来不出来に固執するだけが人の生き方ではないのです。最後に立っているボクサーが勝ち名乗りを上げる生き方がいいのか,試合の後は敵味方のないノーサイドを望むのか。そして,自分の役割がどこにあるのか。きちんと考え,その道を進もうというのならば,手を差し伸べてくれる人はきっとどこかに居るはずです。

17/09/09
隠し球

仕事一筋で働き,定年退職と共に急に老け込んでしまう,いわゆる企業戦士が昔は多かったように思います。仕事が生活の中心で,家事のことは妻に任せっきりで,湯飲みがどこに仕舞ってあるのかさえ分からない。そんな仕事人間は一時期よりも少なくなったでしょうか?団塊の世代と呼ばれた人たちの多くは職場の一線から離れました。もちろん今の時代,60代70代でも現役で働いている人も居るでしょう。老け込む年齢が徐々に延びているように感じます。それとは逆に,もっと若くして仕事を辞めてしまった,あるいは今は休業状態という人だって居ることでしょう。社会の環境やシステムがそうさせてしまっているのかもしれません。

生きるために仕事をするのか,仕事をするために生きていくのか。そんなニワトリが先かタマゴが先か的な考え方ではありませんが,仕事は何のためにするのでしょうか。大人になって仕事をしていれば一度や二度,そんな疑問を感じたことはないでしょうか?仕事人間だった人にとっては,「仕事するために生きているのが当たり前だ」という,そんなテーゼが示されそうです。「そうじゃない。生きていくには食べなければならない。だから仕事をするんだ」と言う人も居るでしょう。そんな二律背反的なことはさておき,『仕事を終えたあと』にどう過ごすのか。これはどちらの主張をする人にもやがて訪れることでしょう。

身近な人が突然ピアノを演奏したり,重機で重い石を移動させたり,誰も読めない漢字をさらっと読んでしまったり,普段寡黙なのに英語では流暢に喋ったり,目にも留まらぬ速さでタイピングして案内物を作成してしまったり。「この人,こんなこと出来たんだ」と思わせるような隠し球を持っていれば一目置かれることになるかもしれません。もちろん人を驚かそうと思ってはじめるのではなく,もともと好きだったりある時期,そうしたことに打ち込んだからこそなせる技なのでしょう。けれどもこうしたことが実現可能にするためには,一朝一夕では叶いません。ふだんから気に掛けていることを少しずつでも実践していくべきだと思います。そうしたことを心がけていれば,いい歳の重ね方が出来るのではないでしょうか。人のためにするのではなく,自分のための隠し球を多く持っている方が,豊かな人生を送れることと思います。

17/08/08
古道具

普通に生活をしていても,誰しも体にいくつかの傷跡はあるものでしょう。不注意によって出来てしまったもの,不意の事故で負ってしまった怪我。年と共に傷跡は増えてしまうことでしょう。ヒトには自然治癒力があるので,多少の傷ならば放置しておいても治ります。ちょっとした切り傷や擦り傷ならば,水で洗って放置するか,消毒液で処置をしたり絆創膏を貼ったりする程度で済ませても問題ありません。その程度の傷ならば,やがてどこを怪我していたのかさえ思い出せなくなるでしょう。不幸にして残ってしまった傷跡には,どのような思いが残っているでしょうか。もちろん怪我をして嬉しい人などいないでしょう。怪我をしたすぐあとには痛みも残るし,場所によってはずっと後悔が残ることだってあるでしょう。一度ついてしまった消えない傷跡は,心の傷としても残ってしまうかもしれません。それでも生きている限り,その傷も自分の体の一部として認めていくしかないのです。

自然治癒力のあるヒトならば,傷跡は徐々に消えていきます。けれども『もの』についた傷は消えません。代々使われてきた箪笥が,引き出しの具合が悪くなり徐々に使われなって仕舞い,やがて粗大ゴミの日に廃棄されてしまう。新しい鍋に追いやられてしまった古い鍋は,使わなければカビ臭くなり,料理に使うには抵抗が生じゴミの日に玄関の外に出されてしまう。自然治癒力のない『もの』たちは,持ち主が修繕や手入れしようとする気持ちがなければ捨てられる運命にあるのです。

電化製品は修理するよりも新しく購入した方が安く済む。そんなことはよく耳にします。事実そうしたことがほとんどでしょう。けれども古道具には長く使われてきた歴史があります。最初にそれを使い始めたのが親であったり祖父母であれば,長く受け継いで使い続ければ,それがその家のひとつの歴史となるのでしょう。修繕しても完全なる新品になることはないですが,残った傷跡がその家の歴史であり,古道具の辿ってきた道のりなのです。壊れたらすぐに捨てるのではなく,もう一度命を吹き込んであげてはいかがでしょうか。

17/07/07
おまじないのことば

七月七日は七夕。年に一回,彦星と織り姫が会う日として有名です。短冊に願い事を書いて,その願いが叶うようにと祈る人も居るでしょう。七夕の起源を知らなくても,この日は一年に一回やってくることは知っています。

年に一回あるものは他に何があるでしょう。すぐに思いつくのは誕生日です。誰にも平等に誕生日は年に一回やってきます。そうして一つ歳を重ねていくのです。年齢が増すにつれ,誕生日を迎え歳を取ることを嘆いたり,悲しんだりする傾向がみられます。それは特に女性に多いようです。加齢と共に体は衰え,徐々に出来ることが減っていくのですから,女性ならずとも誕生日は必ずしも嬉しいものではなくなるのかもしれません。けれどもそうでしょうか?若い方が時間も何かに取り組む機会も多いのは事実でしょうが,何かを始めることと年齢には必ずしも相関関係があるとは限りません。その人の気持ち如何に依るのでしょう。思っていても始めなければ,それこそどんどん歳をとり,本当に身動きが出来なくなってしまいます。

年に一度あることは個人的なことよりも,公的行事あるいは学校や会社などの団体の方が定期的にあるので多いでしょう。入学式と卒業式。新年度のクラス替え,人事異動による配置転換などです。人はこうした区切りによって,また新たに出発できるものです。いつまでも同じ環境で過ごすことは不可能でしょうし,変わらない環境は,時にその人にとって不幸な結果を招きかねません。もっと短いサイクル,季節ごと・月ごととか,あるいは週替わりで新たなスタートが切ることが出来ます。日々変わっていくことも,変化がみられていいのかも知れません。今日悪いことがあっても,明日はいい日でありますように。そう願う人が居るでしょう。ある種の強制的な時間の区切りは,否応なしにやって来ます。人智の及ばない,必ずやって来るそうした区切りがあるからこそ,新しいことを始める切っ掛けになるのです。時間が背中を押してくれることだってあるのです。そうした積み重ねの中で私たちは歳を積み重ねていくのだから,嘆いたり悲しむことは要らぬことだと思います。

短い区切りの一日が始まるとき,今日の日がいい日でありますように。そう願う気持ちが大切です。自分なりの決まったおまじないをして,出掛けていくのも一つの厄払いになるかも知れません。

「今日の日がいい日でありますように」

17/06/06
人工知能とロボット

1997年,IBMコンピューター,ディープ・ブルーが当時のチェスの世界チャンピオンを破りました。駒が再び盤上に戻らないチェスは,将棋と比べてそのパターンが少ないことから,コンピュータが得意とするさまざまな手順を探ることには適していたようで,今では完全に人間よりも強くなりすぎ,ソフトによっては人間が『手加減』して貰うようになりました。将棋では上級者が飛車や角を最初から使わない,駒を落として戦うのに似ています。その後,コンピュータの性能も進化し,近年では将棋や囲碁の世界でもトッププロがコンピューターに負けてしまったニュースを聞くことがあります。いわゆる「手を読む」ということに関して,コンピューターを前にしては人間は決して敵わないのです。情報処理に長けたコンピューターに処理能力で競ってもまったく勝負にならないのです。

チェスや将棋で人間がコンピューターに負けるという事実は何を意味しているのでしょう。ソフトを開発した人たちからは,人間に勝利することを勝ち誇るような言葉を聞くことはありません。トッププロに勝つことで,コンピューターの性能を誇示することがひとつの目的なのでしょう。円周率の計算がどこまで達したのか,それを競うのも同じことでしょう。どれだけ早く正確に情報処理できるか。そのことにより,人間の生活に役立つことが可能になる。そう考えている人がほとんどだと思います。勝負事は白黒がはっきりするので,コンピューターの進化の目安としては分かりやすいために選ばれているのかもしれません。これが例えばレオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』に勝る絵画や,ベートーベンの『運命』よりも感動的な楽曲を作る,となるとどうでしょうか。

中学受験をした中学生が進学してからどう勉強していいか分からず,著しく成績が低迷することがあります。自分で何を勉強すればいいのか分からないと言うのです。先生からの指示があれば,それにしたがい学習することは出来るのですが,自ら進んで学ぶことが出来ないまま学校の授業が進み取り残されてしまうことが見受けられます。それでも何とか進学しやがて社会人となっても,やはり同様のことが起き,指示待ち状態の大人が増えてしまうのでしょうか。すでにそれを感じている人もいることでしょう。ボタンを押されないと始動しないロボットのように。2045年には人工知能が人類を超え,コンピューターが人間を支配すると危惧されています。絵画や音楽に感動を覚え,歴史を学び古人がどんな生き様を描いたかに共感し,数学や物理の問題を解くことに喜びを知る。学ぶ喜びと感動を忘れてしまったら,2045年はもっと早くやってくるかもしれません。けれども感動という感性を失わなければ,2045年は永遠にやってこないでしょう。

17/05/05
対角線

長方形や六角形をはじめとする多角形には対角線があります。隣り合わない頂点と頂点を結ぶことにより,何本もの対角線が引けます。四角形の場合なら2本,五角形ならば5本,六角形ならば9本と,その数は増える一方です。対角線は平行線や座標軸とは異なり,その実線が引かれなくても何となく想像できるところが面白いものです。「平行四辺形の対角線にある2点において…」のような問題では,実際に対角線を引かなくてもその存在が認識できるでしょう。対角線が頭の中で引かれるのです。もちろん自分は実際に引かないと分からない,と言う人も居るでしょうが,平行線に比べれば引かなくても済む確率は高いはずです。

ひとつの頂点から対角線を引いていくと,その内部には三角形が次々と出来上がります。八角形の場合ならば自分自身と隣の頂点を除く5つの頂点に引けます。頂点は全部で8つあるので5×8=40本,これだと反対側から引いた対角線を二度数えてしまうので,40÷2=20本となります。すべての対角線を引いて仕舞うと,多角形の中には多数の三角形や多角形が出来上がります。対角線がひとつの平面を分けるのです。世界地図はひとつの陸地をいくつもの線で分けています。多角形に対角線を引く作業に少し似ているかもしれません。あるいは同じ国の中でも,たとえば日本の場合,北海道を除けばすべての「島」がいくつもの都道府県に分けられるのです。国やその地域に分けることは,さまざまなメリットがあるからこそそうなっていったのでしょう。そうすることの利点の方がきっと多いことは,長い歴史を鑑みれば正しかったのでしょう。けれども近年世界に起こった戦争や紛争をみると,果たしてそれが本当に正しい選択だったのかと疑いたくなります。罪のない子供までもが犠牲になる戦いに,同意できる余地は寸分もありません。

宇宙飛行士が見た地球には国境線が無い,と聞いたことがあります。3人居れば派閥が出来る,と言う言葉もあります。正三角形はどの2点の距離も等しいです。でも,どれか2点を近づけると1つの点だけが遠ざかります。そういうことが実際には個々の中でも,国や地域どうしでも起こってしまっているのは悲しい現実です。確かに同じ距離を保つのは難しいかもしれません。けれども,いつでも歩み寄れる程度の距離は出来ないものでしょうか?知恵も工夫も出来る人間なのだから,考えることを放棄してはならないのです。三角形は唯一,対角線の存在しない多角形なのです。

17/04/04
試験勉強と時間

試験間際の中学生や高校生は,根を詰めて試験勉強をするものです。ふだんの不勉強を後悔しつつも,覚えきれないほどの歴史の出来事を覚えたり,理解困難な物理の法則を,無理矢理解ったことのようにします。理屈云々ではなく,翌日の試験に間に合わせなければ,単位や進級に関わってくるのかもしれないのです。もっとも,そこまで追い詰められていなくても,誰しも試験勉強はしっかりやるものでしょう。大人においては,締め切りが近い仕事や,あるいはどうしても仕上げなければならないものがあれば,他のことを排しても仕上げようと躍起になります。学生との違いは,仕上げた仕事の評価が試験ほどはっきり現れないことでしょう。もちろん取引先との契約が決まるとか,売り上げに反映するとかの結果が出るようならば,それなりに上司からの評価が下されることでしょう。けれども,多くの仕事は学生時代の試験ほど白黒がはっきり付くものではありません。

ふだんからきちんと予習復習をする,あるいは計画的に仕事をこなせればそんなに慌てることはないでしょう。理想はそうかもしれませんが,現実はなかなかうまくいかないものです。それは誰しもが経験することでしょう。サボってしまう気持ちは,中学生・高校生くらいの年齢ならあり得ることです。大人においてもそれを完全に否定できる人は居ないでしょう。それに,想定外のことはいつでもあるのです。抜き打ち試験があったり,部活動が急に入る。取引先や上司から無理な注文が出て,泣く泣く残業せざるを得ない。心当たりはないでしょうか。

根を詰めすぎると思考回路に狂いが出たり,ふだんではあり得ない間違いを犯したりします。焦るあまり,答えがすでに出ているのにまだその先につき進もうとしていることさえあります。誰かがそばに居て,その間違いを正してくれればいいのですが,視野が狭くなってしまっている人にはそれは難しい注文でしょう。試験勉強や仕事に一生懸命取り組んでいると当然疲れも出てきます。それでも時間を惜しんで無理に続けようと,人は得てしてしてしまうものです。その気持ちはよく分かります。でも,本当に継続することが正解なのでしょうか。どこかで手や頭を休めて,リフレッシュするのも効果的です。15分だけ仮眠を取ったあとに集中する勇気も必要なのです。ほんの少しのそうした余裕が,気持ちにゆとりを持たせられるのです。一度自分に問いかけてみてください。今そこまで頑張らなければならないのかと。

17/03/03
分岐点

私たちの日々の生活では,さまざまな選択肢から選びながら過ごしています。朝食は何にするか,着ていく服は何にするか。昼食は何を食べるか。わずか半日でもそれなりに選びながら過ごしているのです。そんな小さな選択は,それほど悩まずに決めているのでしょう。あるいはそれを決めていることすら意識していないことの方が多いでしょう。でも,これから選ぶものがその後の人生や生活に大きく関わるのならば,その時は真剣に考えることが当たり前です。誰かに相談したり,占い師にみて貰ったりと,慎重になるものです。小説や映画,漫画の世界では時に『アナザーワールド』あるいは『パラレルワールド』が題材として取り上げられます。もう一つの自分があったならば,どんな人と出会いどんな人生を歩んでいたか。不可能な事象なだけに空想の世界で考えたくなるのは,容易に理解できることです。井上陽水の唄に「人生が二度あれば」というものがあります。やり直しの出来ない人生だからこそ,選択するときに迷ったり悩んだりするのでしょう。

人生の中で何度か巡り会う分岐点で,もしあの時もうひとつの別の道を選んでいたら,自分の人生はどんなふうに変わっただろう?そんなことを考える人はきっと少なくないでしょう。分岐点で選んだ選択肢が自分の望む結果でなかったり,望んでいたものの,後になってもう一つの選択肢を選んでいたら。そう考えてしまうこともあるでしょう。もし第一希望の学校に受かっていたら,もし別の会社に就職していたら,もし別の人と結婚していたら。自分の人生はまったく別のものになっていたかもしれない。進む学校や就職先の会社が違えば,それから先に出会うほとんどすべての人はまったく異なるのですから,別の人生を歩むことは当然です。出会う人も異なれば,生まれてくる子供も全くの別人になるのです。翻ってみれば,自分の親や祖父母,あるいはもっと遡って祖先の誰か一人でも違う道を選んでいたならば,今の自分は存在しなかったのです。それを人は運命と言います。そう定められたものがいま現在あるのだと受け止めるのが自然なのでしょう。決して『もう一つの人生』など無かったのです。

けれども未来はこれからやって来ます。自分の手で道は開けるのです。あの時こうすればよかったのに,と後悔するよりは,自分で選んだ道を信じていくことです。

17/02/02
交わる平行線

小学校の算数の授業では,平行線の引き方を学びます。平行線の引き方は,三角定規を固定し,その一つの辺にもう一つの三角定規を乗せて最初の直線を引きます。次に乗せた三角定規を滑らせるように移動し,二本目の直線を引きます。簡単に引けるので,一度試してみてください。ところでこの二本の平行線は本当に平行なのでしょうか?もちろん平面上での話で,その平面も直線も無限に広がっているものと考えます。

一見,平行であるものがそうでないように見えることがありポッゲンドルフ錯視ます。たとえば空と大地はどうでしょうか。どこまでも広がる広大な平野を想像してみてください。雲ひとつ無い空と大地がどこまでも続いています。けれども遙か 彼方の地平線を見れば空と大地は交わって見えます。そう,交わって「見える」のです。彼方の地平線まで行けば,再び空と大地は平行に見えるでしょう。鉄道の線路も同様の現象が起こります。電車に乗り一番前の運転席から見える線路も,ずっと先は交わって見えます。交わるはずがないと分かっていても,二本のレールは彼方で交わるのです。これらは遠近的な錯覚で,平行であるものが交わって見えてしまう一例です。もちろん実際に交わることはないのです。けれども見かけ上はそう見えてしまうこともあるのです。錯視による平行線の『勘違い』も多数例があります。平行線が曲がって見えてしまう「ツェルナー錯視」や,隠された斜線がどこへ繋がっているのか「ポッゲンドルフ錯視」などがよく知られているでしょう。要するにヒトのモノの捉え方次第だということです。

考え方の合わない人との話し合いでは,「議論はいつまでも平行線を辿っている」などと表現されます。二つの考え方に共通する観点が見出せないのでしょう。果たしてそれは真実なのでしょうか。やまない雨はこれまでに一度もありませんでした。地球上のすべての火事はいつしか消えました。心を病むこともあるでしょうが,すべてを否定的に考えてはいけないのです。平行線を辿っているかのようであっても,どこかで接点があるのかもしれません。それが錯覚であっても構わないのではないでしょうか。平行線もいずれは交わるかもしれません。そこに二者の幸福が隠されているのなら,交わる平行線もまた楽しいのではないでしょうか。

17/01/01
ご馳走

誕生日やクリスマスなどで,親しい友達や大切な人にプレゼントするときに何を贈ればいいのかと悩む人は多いことでしょう。ありきたりなものではなく,相手に喜んで貰うものを贈りたい。そう思うのは当然のことでしょう。いわゆる定番ものではなく,これを贈れば喜んで貰える,そう考えることはないでしょうか。そんなときに,ふだん相手がどんなものを望んでいるのかを知っているかが,相手を喜ばせる勘所なのかもしれません。自分のことをよく見てくれている。そう感じ取って貰うことが大事なのです。

大事なお客さんを招くとき,高級な料理店や豪華な食材を用意して準備することを考えるのがふつうでしょう。高ければ良いというものではないのでしょうが,一般的にはその方が無難であることは確かです。でも,それがすべてでしょうか。もてなす相手のことを考えた上での選択ならばそれも良いでしょう。けれども,単にお金を掛ければ良いものが得られると思うのは,もてなす方の勝手な思い込みではないでしょうか。招かれる人のことを考えれば,堅苦しい高級店よりも,気軽に過ごせる店の方がリラックスして楽しめることもあるでしょう。何がよくて何が好まれないのか。相手のことを考えずに,自分の気持ちを押しつけるのは独りよがりだと言えるでしょう。

ご馳走という言葉があります。この語源には,食材を走り回って集めることにあります。昔はお客さんに美味しいものを食べて欲しい,その思いから馬を走らせ,時には自らの足で食材を得なければならなかったのです。その食材自体もそれを作る農家,家畜を育てる酪農家,魚を捕る漁師があってこそのものです。誰の手もなくして食料を得ることは出来ないのです。食材を育てる,食材を捕る。そんな原点から始まって,ご馳走は成り立つのです。大切なのは相手を思いやる心です。そして,招かれる方もご馳走をしてくれる人の心を感じ取ることが大切でしょう。今の時代でもそれは同じことでしょう。相手を思いやる気持ちがあればこそ,食材を選んだり,贈ることが出来るのです。それに感謝する気持ちを持ち続けることが大切だと思います。