12/12 戦争を知らない子供達 11/11 ぼんやり 10/10 絶対零度と検索 09/09 生まれ変わりと女子力 08/08 食べず嫌い 07/07 通過点 06/06 マクロな世界とミクロな世界 05/05 こども電話相談室 04/04 符号の間違い 03/03 おまじない 02/02 自分のことばで 01/01 準備

16/12/12
戦争を知らない子供達

昨年,戦後70年を迎え,徐々に日本が戦争をしていた時代から遠ざかっていく感があります。米国大統領初のヒロシマ訪問や,日本の総理大臣が真珠湾に出向くなど,両国間の友好関係は良好のように見えます。それとは別に,戦争を忘れないためにも,毎年八月には戦争に関するさまざまな行事が行われます。戦争体験者が少なくなっていく中,老人に貴重な体験談を話して貰うこともしているようです。でも,果たして彼らは本当に話したいのでしょうか。出来ることなら話したくない。それが本音ではないでしょうか。戦争に限ったことではなく,誰しも辛かった体験を進んで話したがるものではないでしょう。それでも今,戦争の体験を話そうとしているのは,孫やその後に続く世代に二度と戦争という異常な体験をさせたくないという思いがあるからでしょう。

昭和45年,「戦争を知らない子供達」という曲がヒットしました。反戦ソングであるこの曲は,まだ戦争体験者が多かったこの時代の大人達にはどのように聞こえたのでしょう。ベトナム戦争まっただ中でもあり,この唄に対する評価は学生の間でも二分し,コンサート会場では「帰れ」コールをする若者と,応援する若者が同じ空間に居ました。この曲を作詞した北山修氏は,いつか世界中のこども達が歌えるような世の中になって欲しい,と願ったそうです。けれどもその願いは遠いものとなりつつあります。日本に限れば確かに多くの人たちが戦争を知らなくなりました。でも,世界に目を向けてみるとどうでしょうか。毎日のようにどこかの国や地域で人が人を殺しているニュースを見ます。犠牲者の多くがこども達であるのがいたたまれません。ネットやスマホなどが気軽に使える現在において,戦場付近に住む子供が世界に向けて身の回りの状況を配信している報道を見ました。その中で少女は「私は明日には生きていないかもしれない」と言っていました。

「戦争を知らない子供達」のように意見が分かれるところでしょうが,自衛隊が後方支援に出向くことにも多くの意見が出ています。国益のためだとか,戦争を放棄している国が戦争に荷担していいのか,など議論は尽きません。もちろんそういった議論も大切ですが,派遣される自衛隊員の気持ち,家族の思いはどうなのでしょう。ここ5年間で塾の卒業生から3人が自衛隊に入隊しました。家族でもないのに,もし彼らが戦地に赴くことになったら,かなり複雑な気持ちになることでしょう。いつ死に直面するか分からない場所で,自らの命を守るために人を殺めてしまうかもしれない場所。そうなったとき,若者のその後の人生はどんなふうになるのでしょうか。目には目を歯には歯を,の考えのもと強硬的に弾圧を考える人が居ます。憎しみの連鎖はどこかで断ち切らなければ永遠に戦争は終わらないと主張する人も居ます。正論かもしれませんが,もし愛する人を失ったりあるいは重篤な状態で帰ってきても,人は彼の敵を恨まずに居られるでしょうか。そんな聖人君子はおそらく存在しないでしょう。

人が人を殺していい理由など決してありません。ましてや幼いこども達の命を奪うことに,どんな大義名分もそれは詭弁でしかないのです。目の前に居る小さなこどもに拳を上げられるでしょうか。目に見えない遠い場所から襲う卑怯な方法は絶対に認めることは出来ないのです。「戦争を知らない子供達」の作曲者・杉田次郎氏はこう言っています。この唄が再び歌えなくなることが一番恐い,と。

16/11/11
ぼんやり

人の集中力はそれほど続くものではありません。もちろん個人差はあるでしょう。あるいはそのときの状況にも依るのでしょう。精神状態や環境,目的意識などでも変わるものです。単純な計算をして集中力を測るテストでは,10分から15分を超えたあたりで計算間違いが増えてくるというデータがあります。誰しも間違おうとして間違えるわけではなく,どこかにミスする原因があるのです。そのひとつに集中力の欠如があります。集中力を高めるためにはどうすればいいのか,そのことを論じた書物やテレビ番組はよく見かけます。インターネットで検索すれば,大量の集中力に関するサイトが出現します。試験で単純な間違いを犯すたびにショックを受け,もっと集中して試験に臨めないものだろうかと,返却された答案用紙を恨めしそうに眺めた経験は無いでしょうか?学習する上での集中力は永遠の課題でしょう。

そこまでして集中する必要はあるのでしょうか。もし,限界一杯まで集中したとしたら,人の精神は破綻してしまうか,あるいはそれに近い極限状態まで達したとしたら,頭や体に何らかの支障が出てしまうことでしょう。だからぼんやりする時間も必要なのです。問題を解くことに疲れたり,いいアイデアが浮かばなくなった,グルグル同じことに思いが巡ってしまう。そんなスパイラル状態になったときこそ,ぼんやりする,ボーッと何も考えない時間を作ることが大切です。考え続けることも大切ですが,それは継続性の問題で,ずっと考えるということとは違うのです。ぼんやりする,ボーッとするという行為は一見無駄に見えたり,考えることから逃避しているように思うかもしれません。けれども,そのぼんやりしている時間は,実は脳が次への準備をするための時間になっているのです。スポーツで休みなくずっと練習していることを考えてみてください。体は疲弊していき,怪我の原因にもなりかねません。練習中にもインターバルは必要ですし,長期的に見ても休息する日は欠かせないのです。筋肉や体力の回復が必要なのです。脳も同じで,ずっと使い続けることにより,機能が低下してしまうのです。

試験が明日に控え,時間を惜しんで詰め込んだり,仕事の締め切りが近いからといって根を詰めるのはいかがなものでしょうか。ほんのわずか5分程度のぼんやりする時間は決して無駄になりません。忙中閑あり,という言葉もあります。ぼんやりしている時間だけは,それまでのことは気にせずに,ボーッとしてみましょう。

16/10/10
絶対零度と検索

化学や物理の世界には「絶対零度」という用語があります。すべての分子や原子が熱運動を止めてしまう温度で,これ以上の低温は存在しないとされています。-273℃という驚異的なその数値は,想像することすら難しい世界です。高い方の温度は多数あります。地殻中のマグマは1000℃前後,製鉄所の溶鉱炉の中では2000℃に達するそうです。太陽ともなれば表面でも6000℃,中心部では1500万℃もあります。高い方の温度がこれほど大きな数値であるのに,低い方はたかだか3桁までしかないことに疑問を感じる人も居るでしょう。それは人間が決めた基準に依るものなので,例えば現在の100万℃を0度と定義し直せば,低い温度もかなり大きな値になったはずです。人類は自分たちの環境にあるものを基準に数値を決める傾向にあります。温度もそうであって,最も身近な存在であり生命の存在に必要不可欠な水を基準にしていることは,化学に詳しくない人でも知っているのではないでしょうか。水の融点は0℃で,沸点は100℃。これは水の状態変化をする温度です。

絶対零度に到達することは可能なのでしょうか?その温度ではすべての物質が運動を止めてしまいます。ものを冷やすことに人類は昔から苦労をしてきました。冷蔵冷凍の電気的な技術があればこそ,現代では簡単に氷を手に入れることが出来ます。けれども,昔は氷を手に入れるには氷室などに頼るしかありませんでした。歴史的には平安時代にかき氷を食したという記録があります。その一方で高い温度を得ることは太古の昔から可能でした。それは火をおこすことです。木々を燃やすだけで,容易に高温を手に入れられたのです。その結果,さまざまな食材を調理することが可能になり,生で食べられなかったものを食べられるようになったことは,人類の歴史の中では大きな出来事なのでしょう。氷を始め低温は調理ではなく,保存のための技術として役に立ってきました。冷蔵により食材を腐ることから時間的に伸ばせ,冷凍によりその時間を飛躍的に伸ばすことを可能にしました。

ただ,現代においても低温への挑戦は難しいようです。例えば自宅で何かを冷やす場合,冷蔵庫を使うのが普通でしょう。では,ある物体をマイナス100℃まで冷やすことは可能でしょうか?答えはノーです。一般の家庭では出来ないことです。もちろん大学の実験室などでは可能でしょう。ところがそれがさらに低い温度となると,どこの実験室でも出来るものではありません。さらに極限的なマイナス273℃となると並大抵なことではないでしょう。そうした現実もあまり知らずに,絶対零度より低い温度は存在するのでしょうか,と言った興味本位で質問する人が居ます。そういった人はまず,温度の定義,絶対零度の定義をきちんと理解するところから始めるべきでしょう。単にイエスノーだけで興味が満たされる怖さ。それが今の世の中の簡単に検索できる状況なのです。検索しただけで知ったつもりにならないように,その先の本質を知ることも大切なのだと思います。

16/09/09
生まれ変わりと女子力

もし生まれ変われるとしたならば,次は男がいいか女がいいか?そんな質問をされたことはないでしょうか。性別や年齢によって答えはまちまちでしょう。同じ人であっても,時が過ぎればその答えは変わるかもしれません。別の性別を選ぶ人はどんな人物像が考えられるでしょうか。今の性に満足していない,今の性で不利益なことが多く感じた。こうしたマイナス的要因から別の性を願う人はいるでしょう。一方,男性でないと難しい職種になりたい,女性ならではの流麗な立ち居振る舞いをしたいなど,ポジティブな選び方をする人もいるでしょう。特殊な方法を除けば,男性が女性に女性が男性になることは出来ません。それゆえ「もし」という枕詞が付くのです。

「女子力」という言葉をしばしば耳にします。実はこの言葉,明確な定義がなく人によって解釈が異なるようです。比較的新しい言葉なので,その定義をネットから拾ってみました。「女性が自らの生き方を向上させる力。また,女性が自分の存在を示す力」(goo辞書)や「輝いた生き方をしている女子が持つ力であり,自らの生き方や自らの綺麗さやセンスの良さを目立たせて自身の存在を示す力。男性からチヤホヤされる力」(Wikipedia)あるいは「女性の,メイク,ファッション,センスに対するモチベーション,レベルなどを指す言葉」(はてなkeyword)などがありました。「向上させる力」や「存在を示す力」あるいは「輝いた生き方の存在を示す力」など,ほとんどの定義が女性の良さを前面に出しています。最初の定義が内側から発していく力なのに対して,二番目の定義は内なる力からさらに先へ進み,自らを目立たせるという行動に移されているように感じます。その結果かどうかは分かりませんが,その後に「男性からチヤホヤされる力」といった揶揄に近い定義もあります。このチヤホヤされる力がどちらかというと外的な力の作用であり,その前に定義された力が内側からものであると捉えられるところが興味深く感じました。

「生まれ変わる」の質問には,いわゆる仏教用語でいうところの輪廻転生としてのとらえ方と,今の人生の中での生まれ変われるとしたらという,二通りに捉える事が出来ます。最初の質問内容からすると前者に対する問いかけと考えるのが一般的でしょう。そこで男性諸氏に考えて頂きたいのです。もし女性に生まれ変われるとして,女子力を意識した女性になりたいでしょうか。あるいは生まれ変わった自分に女子力が必要でしょうか。女性諸氏に伺います。もし男性に生まれ変わったとして,(男性の)あなたが選ぶ女性に女子力を求めますか?生まれ変わるのは確かに『自分』ですが,周りの男女に関する環境はそれほど大きく変わらないでしょう。違う性別になることを考えるだけでも,男性は女性の,女性は男性の考えていることの一端を見ることが可能なのではないでしょうか。ほんの少しのことかもしれませんが,相手のことを知り,考える切っ掛けになることでしょう。

16/08/08
食べず嫌い

こどもの頃に食べられなかったものが,大人になると食べられるようになった。そんな経験は成人した人ならひとつやふたつ覚えがあるでしょう。代表的なのがピーマン。こどもが嫌いな食べ物の代表であるピーマンを食べられない大人は少ないことでしょう。人参や椎茸,セロリなどが苦手だったと言う人も居ることでしょう。こうした食材が嫌われる理由に,ヒトは酸味=腐敗,苦み=毒性ということを本能的に感じるメカニズムがあるという説があります。食物に対する危険性への表れだと言われています。酸味や苦みを持つ食物に,「これは危険だ」と本能で判断するため,経験の少ないこどもは腐敗や毒性を感じるようなのです。大人は経験によりそれらを克服し,苦いものにも美味しさを感じるようになるという考えが一般的です。苦くても毒性がないと知れば,その後苦みのある食べ物も食べられるようになるのです。

経験によって,安心だと判断したり危険が伴うと感じるのは,何も食べ物だけではありません。たとえば初めて訪れた家で飼われている犬。吠えられたり噛まれたりしないか。最初は警戒するでしょう。ところがしっぽを振って歓迎してくれる仕草をしてくれれば,二回目に訪れるときには安心して玄関に向かうことが出来ます。スポーツでも同様のことが言えます。初めて対戦する相手には警戒心が強いはずです。何をしてくるのか分からない,どんな得意技を持っているのだろうか。自分の力量で倒せるのかと。リオ・オリンピックが始まりましたが,オリンピックではふだんの競技以上に番狂わせが多いように思います。プロ野球のように年間20試合以上も同じチームと試合をする場合,いわゆる手の内を知った同士なので,緊張度は初顔合わせほどはないでしょう。未知の食材に慎重なこどもと,初めて対戦する相手を警戒する選手はどことなく似通っているように思います。本来の実力差が歴然としているはずなのに,力量の劣る方が勝つことがある。それは強者の疑心暗鬼による,自己の敗北なのかもしれません。

ふだんの生活の中でも,やはり『初めて』は緊張するものです。新年度には新しい同級生と出会い,担当する先生も変わります。「期待と不安」という表現が,新しい環境に向かう人に対してよく使われます。不安は新しいものに対する警戒心の表れのひとつです。他者に依るものが不安なのだから,自分で解決できない分不安が募るのでしょう。こどもに比べると,大人の方が環境変化は少なくなる傾向にあります。けれどもたとえ少なくなるにしても,苦いかしょっぱいか,あるいは甘いのか。人と接するとき,はじめからこの人は苦手だ,などと思うのは食べず嫌いのこどもと一緒になります。まずは食することです。接することです。その後,どんな付き合いをしていくのかは自分の舌で判断すればよいことだと思います。味覚を感じる器官に味蕾があります。この味蕾の数は,こどもは大人の3倍もあると言われます。食材だけではなく,人間に対する味覚までもが大人の方が鈍くなってしまうのでしょうか。味蕾は減少しても,他者に対する思いは人それぞれ異なります。それを意識しているうちは,決して感覚は鈍っていないと思います。

16/07/07
通過点

プロスポーツなどで,区切りの大記録に近づいてくると,新聞やテレビなどの報道では頻繁に,その選手のことを取り上げるようになります。積み上げてきたその数字を聞くだけで,それまでの彼の選手の偉大さを感じることが出来ます。「大記録」と呼ばれる記録は短期間に成し遂げられるものではなく,長い年月を経て達成されるものなのでその感動もひとしおです。けれどもその反面,寂しさも同時に感じてしまうのです。積み上げてきた年数が長いということは,その選手の引退が近づいてきていることを案じてしまうからです。プロ野球では打者は2000本安打,投手なら200勝を目標にしている選手が多いことでしょう。実際,引退した選手の記録を見ると打者では40人を超える選手が2000本安打を達成しています。その中で,2000本台すなわち2100本に達していない選手は15人も居ます。全体の3分の1が記録達成後まもなく引退したことになります。逆にあと100本以内で記録を達成できなかった,すなわち1900本台の選手は8人しか居ません。いかに目標を達成しようという意欲が強いかが分かります。

受験後に燃え尽きてしまい気力を失ってしまう,いわゆる「燃え尽き症候群」に陥る学生・生徒が居ます。あるいは仕事人間が退職後にやるべきことが見つからず,退屈な日々を過ごしてしまうという話も聞きます。瀕死の人が水を欲しがり,けれどもその水を飲んだ瞬間に安心してしまい息を引き取る。残酷なたとえですが,退職後の老人には厳しい現実なのかもしれません。燃え尽きてしまったあとに這い上がれるだけの気力がどれほど残っているのでしょうか。それはその人の資質に掛かってくるものでしょう。受験生のような若者は,さすがにまだ生命力があるので,そこまで深刻なことはないでしょう。でも,深刻でない分,放置すると取り返しの付かないこともあります。それに気づいたなら,手をさしのべて上げるのが人生の先輩だと思います。

救いはあります。記録達成間近のプロの選手の言葉に「単なる通過点で,それを目標にしている訳ではない」そんなインタビューを何度も聞いたことがあります。受験で勝ち抜くことが最終目標ではない。それは次へのステップにすぎない。仕事を全うするために自分の人生があったのではない。新たな学校で自分の次なる目標を立てる。第二の人生を充実させたい。そんな当たり前のことができればいいのです。言葉で言うのは簡単です。では,実際にどうすればいいのでしょうか。ひとつの方法として,自分の殻を破ることです。外見を思いっきり変えるとか,自分の意義主張を180度転換してみるとか。同じようなことをしていても人はそうそう簡単には変われません。思い切って変えることで,それまでの自分が見えてくるかもしれません。受験が目標で終わっていいのでしょうか。会社や生活のために仕事をしてきたのでしょうか。悔いの無い時間を過ごすためには,燃え尽きている場合ではないことを,受験を乗り越えてきた自分に,必死に働いてきた自分に言い聞かせてみても無駄ではないと思います。

16/06/06
マクロな世界とミクロな世界

物理学で有名な法則の一つに『万有引力の法則』というものがあります。物理を学んだことがない人でも,この名前くらいは聞いたことがあるでしょう。この法則の基本概念は,アイザック・ニュートンが1665年に導き出したというのが通説です。すべての物体には互いに引き寄せ合う力がはたらいているという考え方は,にわかに信じがたいでしょう。例えば電車に乗ったときに「隣に座った人が自分のことを引っ張っているんだ」などと言えば,あらぬ誤解を生じるかもしれません。ちなみに60kgと70kgの人が30cm離れて座った場合,万有引力の法則によりその引力を算出するとおおよそ3.1μ(マイクロ)ニュートン=0.31mg重という力がはたらきます。この数字に何の意味があるのか?と問いたくなるでしょう。実際には無視できるほどの値です。万有引力の法則をもう少し詳しく述べると「2物体間にはたらく力は,その質量の積に比例し距離の2乗に反比例する」となります。質量の大きい物体ほど大きな力がはたらき,距離が近ければそれだけ引力も大きくなるということです。身近なものだと,地球と月の引力があります。

さて,万有引力を計算する上で欠かせないものとして『万有引力定数』があります。この値は6.67×10-11という非常に区切りの悪い数字です。先ほどの例は極端ではありましたが,万有引力の法則は惑星や恒星など,大きな物体に対して用いられることが多いのです。一方,原子レベルでの物体間の力に関する公式もあります。原子の中にある電子間に関する力についても,万有引力と同じような式があるのです。『クーロンの法則』と呼ばれる概念は「電荷(電子)間にはたらく静電気力の大きさは,電気量(電荷)の積に比例し距離の2乗に反比例する」となります。原子や電子の世界はまさしくミクロの世界です。電子顕微鏡でも見ることが困難なこの世界で,天体間で起こっている現象とほぼ同じことが起きているのです。ちなみにクーロンの法則における定数も存在し『クーロン定数』と呼ばれています。その値は9.0×109なので,万有引力定数よりはわかりやすい数字でしょう。ただし,万有引力定数が小数第11位ではじめて0でない数字が現れる非常に小さな数に対して,クーロン定数は10桁にも及ぶ大きな数なのです。大きな天体を扱う公式の定数が小さく,逆に非常に小さな物体に関する公式の定数が莫大な数になるところが何とも不思議な気がします。

この2つの考え方の面白さは定数に関することだけではありません。大きな物体であっても,ミクロの世界であってもそれらの及ぼしあう力の考え方が非常に類似しているところが興味を引きます。天体も原子や電子もその形状が球体に近いという点も興味深いものです。夜空に浮かぶたくさんの星と星の間にはたらく力と,下敷きをこすって髪の毛を逆立てる所作における静電気力。これが同様の計算式で成り立っているのですから面白いものです。いま目の前にある家電製品や,あるいは衣服の中にも多数の電荷(電子)が存在しています。その中で起こっている小宇宙の世界に,もし我々と同じ宇宙空間が存在していると考えてみてください。その逆に,我々の住む宇宙もその外から想像を絶する巨人が俯瞰しているのかもしれない。飛躍した考え方をすれば,神の目から見れば宇宙全体も原子の中もそれほど変わらないのかもしれません。そう考えると,難しい万有引力の法則も少し楽しくなることでしょう。

16/05/05
こども電話相談室

その昔,小学生や中学生がラジオで疑問を質問できる「こども電話相談室」という番組がありました。TBSラジオが放送をしていたもので,こどもからのさまざまな疑問に答える生番組でした。回答者は複数の専門家やタレント,スポーツ選手などもいました。直接電話をして,その場で回答者と話をしながら答えて貰うという,こどもにとっても回答者にとってもドキドキするような企画だったと思います。自分の声がラジオから聞こえてくることを考えるだけで,当時の小中学生はワクワクしたでしょう。質問内容も勉強的なものならそれなりに答えられるかも知れませんが,そこはこどもの疑問。中には答えるのが難しい内容だってあるでしょう。こんな質問が小さなこどもからあったそうです。それは「ネコはなぜ『ニャー』と鳴くんですか」です。あなたなら何と答えますか。番組の名物回答者である無着成恭氏はこう答えたそうです。「ネコが『ニャー』と鳴くんじゃなくて,『ニャー』と鳴く動物をネコと呼んでいるんだよ」と。質問したこどもがどの程度理解したかは分かりませんが,見事な解答だと思いました。

こども電話相談室は惜しまれつつも,その長い歴史を44年で閉じました。今から8年ほど前のことです。その後,番組は形を変えて続きました。「こども電話相談室・リアル!」という名の番組です。それまでのような生番組ではなく,また,質問も基本的には電話での相談はほとんど無くなったようです。質問というよりは悩み相談といった体を擁していたようです。いじめや恋愛の悩みなど,現実的なこどもの相談を受ける番組へと変わりました。時代の流れを汲んだ番組に変身したのです。内容的には小学生よりも中学生の方が主体になった感はあります。けれども,身近な人たちに相談しにくい内容も,第三者に聞いて貰うだけでも気持ちが楽になることもあるでしょう。少し前に,学校に行くのが辛いのなら図書館にいらっしゃい,といった呼びかけがありました。弱者であるこどもには,戦う知恵も勇気も無いのかもしれません。死ぬ思いをしてまで,学校に行くことにこだわらなくてもいいんだよ。そんなメッセージが聞こえてくる思いです。

親から虐待を受けたことを児童相談所に相談したにも関わらず,結果自殺してしまった痛ましい事件がありました。その手のことの専門家であるはずの児童相談所が相談を受けたにも関わらず,助けられたかもしれない命を見殺しにしました。追い詰められたこどもに手をさしのべられる大人が,わずか一人でも居たら。そんな思いをした人が多いことでしょう。「こども電話相談室・リアル!」は6年半の放送をもって,2015年3月で終了しました。今の時代,電話で相談という発想を持つこどもは少ないかもしれません。けれども今だにラジオはどこに居ても気軽に聞くことの出来る媒体です。そんな今の時代こそ,こどもが気軽に質問が出来るそんな番組があってもいいのではないでしょうか。それは昔ながらの相談室であってもいいと思います。昆虫や宇宙の謎に関する質問の中に,今悩んでいることはないのかい?そんな会話が出来る内容でもいいのではないのでしょうか。

16/04/04
符号の間違い

数学の問題を解いていてもっとも間違いの多いものは何でしょうか?はるか昔に数学を学んだ人には,すぐに思い出せないかもしれません。それは計算間違いです。計算間違いはどんな人でもやってしまいます。数学が得意だと豪語する人でも,計算間違いはします。その間違いのもととなるものが符号の間違いです。符号にはプラス(+)とマイナス(-)があります。プラスの数とマイナスの数を掛け合わせるとマイナスの数になります。マイナスの数とマイナスの数を掛け合わせるとプラスになります。同符号同士ならプラス,異符号同士ならばマイナスになります。符号は数の計算だけではなく,数式でも多数含まれます。数の計算でも,数式の計算でも演算としての+,-(この場合は足す,引くと読みます)と,符号での+,-(この場合はプラス,マイナスと読みます)が存在します。計算する上で「足すとプラス」,「引くとマイナス」をきちんと意識することも,計算間違いを減らす要因となるでしょう。日本語ならではの発音による違いは,符号の間違いを押さえるための特権と捉えていいと思います。記号にはそれぞれの役割や意味があるのです。昔,引くあるいはマイナスの記号は「--」と二つ続けて書いていたという説があります。これは「+」が縦横2本の線で表せるのに対して,「-」が1本では対等でないと考えることも出来ます。「+」記号の由来はいくつかの説があるようですが,「-」に関してはあまり確かなことは分かっていないようです。けれども,計算結果を示す「=」も2本線で表されることを考えると,最初に記号を考えた人の思いがなんとなく分かる気がします。数学の記号には何らかの論理性があって欲しいと願います。

さて,数学でもっとも犯しやすいこの符号の間違いですが,もし問題を解いていて符号の間違いをした瞬間に「間違っているよ」と教えてくれる『符号間違ってるよの介』というこびとが居たらどうでしょうか?間違うたびにノートやテスト用紙の上に現れて教えてくれるのです。最初のうちは「うるさいヤツだなあ」などとぼやくかもしれませんが,そのうち計算間違いが減り,試験で良い結果が得られ,やがて数学が好きになるかもしれません。うるさいヤツだけど頼りになる,と思い始めるかもしれません。符号の間違いがなくなるだけで,どれほど計算間違いから解放されることでしょうか。けれども現実にはそんな童話のようなこびとは存在しません。計算間違いをしないためにはどうすればいいでしょうか。それには自分の計算力を過信しないこと,すなわち謙虚であることです。その上で間違わないための方法を学ぶことです。丁寧に数字や記号を書く,括弧を多用するなどです。不要と思う括弧も一度は書いてみて,次の段階でこれは必要なのかそれとも無くても大丈夫なものなのかを判断するのです。ノートに記された数字や数式を見ることにより,間違いを発見出来るかもしれないからです。

数学の問題ならこうした解決策があります。では,他の教科やあるいは日常の生活,仕事ではどうでしょうか?符号の間違いほど明快な答えは導き出せないかもしれません。けれどもどこかにある一定の答えは見つかるはずです。英単語が覚えられない,化学記号が理解できない。小説の読解が苦手だ。さまざまでしょう。その悩みが内なるものならば,極端なことを言えばもしそれが出来なかったらどうなるの?いっそのこと諦めてしまえばいいじゃないか。そのくらいの開き直りもときには必要です。そうして考えることから一旦解放され,やがて休み疲れたらまた考え始めればいいのですから。対外的なもの,それが対人関係で抱える問題ならどうなるのでしょうか。自分のことだけで解決できないことは,無理に解決しないことです。そこに『符号間違ってるよの介』は存在しませんが,ふとそんな妄想の賜が降って湧いてくるかもしれません。

16/03/03
おまじない

小さいこどもが手や足をぶつけて痛がっているとき,母親が「ちちんぷいぷい,イタいのイタいの飛んでいけー」と言うと,泣いていた子どもが静かになるような光景は見たことはないでしょうか。実際,この言葉で痛みが無くなるとは思えませんが,痛がる子どもに対しては効果があるようです。Wikipediaによれば,この「ちちんぷいぷい」の語源はかの春日局がこどもをあやすときに考えた言葉であるとか,仏教用語の七里結界に由来するともあります。いずれにしても,日常では使わないような特別な言葉であることは確かです。こうした言葉はいわゆる「おまじない」と呼ばれる類いのものです。おまじないはそれ自身に何か意味を持つものでは無く,その言葉を発することによって決起したり,痛みから解放されたりするのです。

よほど悟った人で無い限り,日常の中に大なり小なり悩みは有るものでしょう。悩みも無く過ごせる人は皆無だと思います。それをどの程度抱え込むかはその人の性格や悩みの度合いによることだと思います。夜寝るときに悩み事を考えてはいけない。そう言っていた人が居ました。ねる前に悩んでも,それが解決することなどまず無いからです。それどころか,寝付きが悪くなり挙げ句の果て悪い夢でも見てうなされるのがオチかもしれません。そんなときには「ケセラセラ」と唱えるといいかもしれません。ケセラセラはスペイン語で「どうにかなるさ」という意味です。いま悩んでもどうせ解決しないなら,考えるのはやめましょう。明日になればどうにかなるさ。ケセラセラ。そんな気持ちを込めて3度唱えてみると気が楽になるものです。ケセラセラは語感もい良く,明るい気分になると思います。

「天才バカボン」を読んだことはあるでしょうか。あるいはテレビアニメで見たことのある人も多いと思います。さまざまな出来事やもめ事がある中で,バカボンのパパは最後にこう言い切ります。「これでいいのだ」と。どんな困難もこの一言で解決させてしまう赤塚不二夫氏の手法は見事としか言い様がありません。何があってもまた明日はやってくる。ちちんぷいぷい,ケセラセラ,これでいいのだ。難しく考えずに,自分なりのおまじないを作ってみませんか。

16/02/02
自分のことばで

今の中学生や高校生は生まれたときから生活の中にネット社会が存在しています。昭和の時代,はじめてテレビが登場し一般の家庭に普及し始めた頃,こんなふうに言われていました。「テレビというものは非常に低俗であり,テレビばかり見ていると,人間の想像力や思考力が低下する」と。これは『一億総白痴化』を懸念した社会学者の見解です。今の時代,そう考える人はほとんど居なくなったでしょう。それだけテレビという媒体が市民権を得たと言えるのです。ネットの世界も,今やパーソナルコンピュータからスマートホンへと移り変わっています。そんな時代の中高生にとって,ネットはそれが存在していることが前提の世の中になりました。もはや昭和のテレビのように敵対視はされないでしょう。

以前ラジオでネットに詳しい人が「ググるな」と論じていました。分からないことがあるとすぐに検索をして調べられる風潮に意見したのです。いとも簡単に調べられる代わりに,その表面だけを見て終わらせることに警鐘を鳴らしたかったのです。今の時代はさらに進化し,スマホに向かって問いかけるだけですぐに応えてくれます。天気予報だったり,移動するときの交通手段など,確かにほんのひと昔前よりもさらに便利になりました。そうした情報を得ることに対して,決して否定的な思いはありません。ただ,件のラジオの論客が主張したかったことは,大事なことはもっと深く掘り下げて調べていかなければいけないと言うことです。他人が調べたことを鵜呑みにして,そのまま済ませてしまうのは,ほとんど何も得ずにあるいは自分の意見がそこに無いままの薄っぺらいものになってしまうからです。学生のレポートで,コピーアンドペーストで済ませることは,学生を指導する大学でも悩ましい問題のようです。さらにそれがもっと上の研究でも行われているのでは無いかと,つい最近も物議を醸していました。

さまざまな人たちで作られるWikipediaにも,不十分な点があるようです。自らのことが記されている記事を見て,そのかなりの部分が事実と異なることが記されていることを告白していた有名人が居ました。自分のこととなると主観も入るので,その人自身が言うことでさえ正しくないことが含まれるのかもしれません。けれども,あふれんばかりのその情報は本当に正しいのでしょうか。いいえ,正しいとか正しくないとかだけでは無く,自分の目で見て感じ考え,その上できちんと自分のことばで表現することが大切なのだと思います。少なくとも外に出す文章ならば,それが自分のことばであるべきなのです。

16/01/01
準備

料理には「隠し包丁」という手法があります。大根や茄子などの野菜,コンニャクに切れ目を入れて味を染み込ませやすくしたり,あるいは火を通りやすくする効果があります。盛り付けたときに表面から見えない側に切れ目を入れることから忍び包丁とも言われるようです。灰汁(あく)の強い野菜や脂の多い肉などを一度茹でて,その灰汁や脂を取り除く「下茹で」も調理法のひとつです。マグロの切り身を醤油と出汁で作ったタレに漬けたり,ステーキに事前に塩・こしょうを振り,味を付けておくことにより素材の持つ本来の美味しさをさらにを引き出すことができます。この「下味」を付けるのも調理のひとつの手法です。この他にも調理方法には面取りや霜降り,板ずりに裏ごしなど,さまざまな手法があります。

旅行あるいは日帰りのお出かけのときでも,事前に調べておくことは大切なことです。目的地にはどのような由来,由緒あるものがあるのかを知っているのとそうでないのとでは楽しみ方が異なってきます。ただ単に訪れて見るだけではもったいないと思います。出先で食事をするにしても,目的とする店があればそこでの食事までの時間がひとつの楽しみになるでしょう。それが高級な店でなくても,ラーメン一杯が,肉まんひとつが,温泉卵1個がご馳走になり得るからです。出掛ける前から「今日の昼食は豚骨ラーメンを食べるんだ」そう考えるだけで楽しくなることでしょう。

料理にしても旅行にしても,事前の準備は大切だと思います。そういったことが煩わしいと思う人もいるでしょう。わざわざ手間暇掛けて作るくらいなら,デパートやスーパーで出来ているものを買ってくればいい。旅先は偶然の出会いだから,行った先で見つけた店で食べればいいんだ。そう考える人もいることでしょう。価値観の相違ですからあえて考え方は押しつけません。でもそれがふだんの勉強や仕事ならどうでしょうか?いざとなってから慌てふためいていたのではまずいのです。レポートを書くための資料が足りない,先方の業務内容が分からないでは済まされないこともあるでしょう。漁師は漁が終わったあと,網の手入れを丁寧にするでしょう。料理店で営業終了後に丁寧に調理場の片付けをしている映像を目にしたことがあることでしょう。すべては明日への準備なのです。何の準備もせずにその場しのぎではいい仕事が出来ません。もしこれまで怠ってきたと感じるのなら,今年こそはきちんと準備をしようと思うには,今がちょうどいい時期だと思います。