12/12知ったかぶりの恥かき 11/11ケセラセラ 10/10乱雑さ ~エントロピー~ 09/09 生まれた朝に 08/08 万死に値する 07/07 相関係数 06/06 明と目 05/05 おなかの中で 04/04 #51 03/03 アナザーストーリー 02/02 弦と弧 01/01 あさりの貝殻
19/12/12
知ったかぶりの恥かき
知ったかぶりをして恥ずかしい思いをしたことはないでしょうか。大人になると『それを知らない』ことは恥ずかしいと思い,つい知っているふりをしてしまう経験があるものです。そうしたことが無いという人は,博学であるか正直に知らないものは知らないと言える性格なのです。多かれ少なかれ身に覚えがあるものでしょう。大人になると立場上,知らないのはまずいと感じそうさせてしまうのもひとつの要因と言えます。『恥の上塗り』,『旅の恥はかき捨て』,そして『知ったかぶりの恥かき』など,恥の付くことわざにはあまり品の良くないものがあります。
恥は本当に恥ずかしいことなのでしょうか?知としての恥は不勉強に依るものが多いでしょう。興味を持ってきちんと接していれば,新たな知識を得てその人の『得』となります。得は徳でもあり,それだけ人生を豊かにしてくれます。「分からないことはきちんと聞きなさい」と,小学生の頃に先生に言われたことはありませんか。大人になってから知らない言葉や事象に出会ったとき,「今さら聞けないよ」と思うのではなく,きちんと調べるべきです。調べて納得して覚える。新たに得たことばはしばらくして忘れてしまうかもしれませんが,また調べればいいのです。それを繰り返す内に,やがて自分のことばや知識となっていきます。こどもの成長にも,この姿勢は大事ですがそこはこども。恥ずかしがって聞けないこともあります。それを察知してあげるのが大人の役割でもあります。「一緒に調べよう」と一歩下がれば,逆にこどもの方から一歩前に歩み寄ってくれるかもしれません。
『命長ければ恥多し』ということわざがあります。長い年月を過ごせば恥を掻くことも多くなります。今年は高齢者による事故や事件が多かったように思います。車の事故やあるいは事件に巻き込まれ,被害に遭われた方も居ました。年齢を重ねると思い込みから自分が間違っていないと勘違いしてしまうことがひとつの原因のようです。ひと呼吸置いて,自分は大丈夫かしら?と少しでも考えることが大事です。年齢と共に『厚顔無恥』が増幅していないかを感じてみることも必要です。
19/11/11
ケセラセラ
昔に比べると過ごしにくい世の中になってきたと思う年配の人は居ないでしょうか?「昔は良かった」では無いですが,いまの世の中は規制が多く,何かをやろうと思い立ったとき,昔と比べると窮屈になったように思います。「昔なら許されたのに」ということばを時に聞きます。法を犯すまででは無い程度で,昔なら許されたことが今の時代では認められないことが増えました。賛否があると思いますが,教育に於ける『鉄拳』は今では否定されます。第三者が物事の成り行きを知らずに結果だけを見てしまうことで,0か100,イエスかノーの二者択一になる傾向にあります。そこに至るプロセスを知らない外野は,黙ってみていればいいのに。そう思うことがあります。
そうした多くの負の要素や,自らが引き起こしてしまう不安に耐えかねないケースを身の回りで感じることがあります。何が悪く,何をすれば解決するのか。それ自体が分からないまま日々過ごすのは,経験した人でないと不安な気持ちは分からないでしょう。他人には分からない悩みは,それを打ち明ければ「そんなことで」と一蹴されるかもしれません。けれども当の本人にしてみればそれがいま抱えている最大の悩みであるかもしれないのです。ある日突然身近な人を失ったとき,なんで打ち明けてくれなかったのか,そう自責し去ってしまった者に対してなぜ?とか,相談してくれれば良かったのに。嘆いてもその時は遅いことに初めて気づきます。
人生の中でたくさんの辛い出来事もあれば,楽しい時期や穏やかに過ごせる日々もあります。絶望の淵に立たされても,人は笑顔でいられる瞬間があります。何とかなるさ。乗り越えたあとにまた日常を過ごします。そして長い時間が過ぎればいつかこう思えるかもしれません。「そんなこともあったな」。そんなふうに思える日がいつかやって来るはずです。辛いときに口ずさもう。何とかなるさ,ケセラセラ。
19/10/10
乱雑さ ~エントロピー~
比較的空いている時間帯の電車に乗ったとき,車内を見渡しどこに座るかを人は選びます。例えば7人掛けの座席シートに1人しか座っていない場合,あなたならどこに座りますか?多くの人はあいている端の座席に座るでしょう。では両端の座席に先客がいる場合はどうでしょうか。おそらく真ん中当たりを選ぶ人が多いのではないでしょうか。人は自然と他人との距離を置く位置を選ぶ傾向にあります。これは水の入ったコップの中にインクを垂らすと,インクは一か所に留まらず拡散していく現象に似ています。“それぞれのインク”は“他のインク”との距離を置こうとするのです。
乱雑さはエントロピーとも言われ,これは物理学の特に熱力学で用いられる言葉です。熱力学第二法則では,熱のエントロピーについて説明されています。難しい法則のように感じるかもしれませんが,その主旨は「熱は高い方から低い方へ移動する」というものです。インクの移動も,熱力学第二法則も見かけ上は至って当たり前のことを言っています。さて,ある閉じられた場所に強力な短めの円柱形の磁石を並べる実験があります。直径20cmくらいのリングの中に磁石を1個置きます。その中に2個目の磁石を入れると,最初の磁石はよけるように移動します。3個目の磁石を入れると同様に1個目と2個目の磁石は距離を置くように移動していきます。これを続けていくと,新しい磁石が入るたびに,先に入っている磁石は他の磁石とほぼ等しい距離を置きながら並んでいきます。混雑してきた電車に乗るとき,空いている座席が一車両に3つくらいしかない状況を想像してみてください。やがて磁石は円形リングの中いっぱいに並びます。そこへ最後のひとつの磁石を投入した瞬間,どうなるでしょうか?磁石たちはその磁力により,一気に数珠つなぎのような状態へと姿を変えます。
もちろん混雑してきた電車内の人の世界ではこのような現象は起きません。遠慮気味に空いている席に座る人も居れば,座ることを諦める人も居るでしょう。そこには人としての理性がはたらくからです。モノと感情を持った人との違いでしょう。では,強力な磁石のように本来移動してしまうはずのエネルギーはどこへ行ってしまうのでしょうか。それはそれぞれの人たちがその内へとため込んでいるのかもしれません。それがストレスになり,負のエネルギーを上手に発散できない人は体を壊してしまうのかもしれません。エネルギーを上手に発散出来る人は処世術が上手いのでしょう。けれどもどちらが良いとか悪いとかではありません。エネルギーをため込んで体調を崩しても,人には治癒力がはたらきます。そして治療法は日々進化しています。日本語には「お互いさま」という言葉があります。頼ったり頼られたり。そんな人から人への思いが伝わるエントロピーもあると思います。
19/09/09
生まれた朝に
ヒトに限らず命あるものは親からこどもへとその遺伝子が受け継がれます。いま存在している生命は,はるか昔から存在する生命の繋がりであり,そこには両親のDNAが受け継がれます。生まれたばかりのこどもはヒトでも馬でも鳥でも魚でも弱々しく頼りないものです。そんな小さな命を守るのは,親の責任であり大事に育てるのは親の義務であります。少なくともヒトではそうであるはずです。
親はこどもに愛情を注ぐ。それが当たり前であり,こどもはその愛情を一心に受けながら育ちます。無垢であり無防備な生まれたばかりの頃は,一日たりともいやわずか数時間だけでも,親の存在なくしては生きていくことが出来ないでしょう。親は自らの時間を削ってでもこどもから目を離しません。泣き声で何を欲しているか分かるのが親であり,こどもは泣くことが自分の欲求を満たす手段であることを本能的に知っているのでしょう。こどもが成長するまでの親から子への愛情には利己は存在せず,慈悲にあふれています。
その愛情が曲がってしまうこともあるようです。何も今の時代だけではなく,おそらく昔から同じことはあったと思います。親によるこどもの虐待は,こどもに対する愛情の注ぎ方の歯車がどこかで狂ってしまったために起こってしまうのでしょう。けれども,自分のこどもが生まれた朝にはそんなことなど思いもしなかったのではないでしょうか。台風一過の朝の空を眺め,今日生まれた子も居るのだろう,そう思いました。生まれ来るこどもは,今日の空を知る由もありません。けれども大きくなったとき,お母さんからその日の朝が,その日の空がどんな風景だったか聞く日が来るかも知れません。わが子の生まれた日の朝に,何を思いどんな子に育って欲しいと願うか。新しい命のはじまりに幸あれ。
19/08/08
万死に値する
朝家を出るとき,その日に起こる出来事を想像する人はそう多くないと思います。もちろん学校の時間割によって少し憂鬱になったり,楽しみにしていた行事があればウキウキしながら出掛けるでしょう。仕事で大切なプロジェクトに関わっていれば,今日も頑張ろう!と思いながら仕事場に向かうかも知れません。けれどもそれらは予期していることです。家に帰り,その日一日が無事終わればホッとしながら団らんを過ごしたり,静かに自分の時間を過ごすことでしょう。誰もが家を出るときに,何事もなく家に帰ることを思います。送り出す家族も,その姿が最後になることなど思いもしないでしょう。
こどもの頃には親や先生から「人に迷惑になることはしないように」と躾けられるものです。それが当然のことで,守らなければ叱られたり,場合によっては罰則が与えられます。大人になってからのその人の立ち振る舞いによっては,その人自身の不徳だけではなく,周りの人をも巻き添えにします。それがこどもならば大人が正してあげればいいのです。大人になってからのそれは,自らが修復しなければならないのですが,もはやそれが困難な人が存在するのは残念ながら否定できません。人に迷惑を掛けるな,といったごく当たり前のことばなど何の効力もありません。その結果,万死に値する蛮行をしてしまう輩がいつの世にも存在してしまうのは悲しい事実です。
第三者でさえも許しがたい事件がこの夏,京都でありました。間接的であれ,私たちは過去に何度もそうしたことに遭遇してきました。そのたびに心を痛め,悲しみに打ちひしがれます。自己中心で他者への思いやりの欠けらも見られない行動は,これまでにたくさんの功績を残して来た人や,これから多くの夢を持っていた若者の生命を一瞬で奪いました。最期の一瞬をどんな思いで迎えたのか。それを思うと言いようのない絶望感と憤りを覚えざるを得ないのです。断じて許されぬ愚かな行為を私たちは決して忘れません。そして許すことはないのです。
19/07/07
相関係数
もうすぐ暑い時期を迎えます。夏になるとかき氷やアイスクリームの売り上げが上昇します。ビールの消費もこの時期がもっとも多くなるでしょう。2つの関連のある数量において,一方の数値の増減が他方にどのような影響があるのかを数値化したものを『相関係数』といいます。気温とアイスクリームの相関係数は,気温が上がれば売り上げも伸びる傾向にあるでしょう。こうした関係がある場合,「正の相関関係がある」と言います。もっとも,アイスクリームの場合は気温が上がりすぎるとある気温以上では売り上げが落ちるというデータがあるようです。生物学では酵素のはたらくための最適な温度があります。例えば消化酵素のアミラーゼは摂氏40度あたりがもっともよくはたらき,これはヒトの体温に近く自然の摂理に適っています。
相関係数の数値的な計算方法は少し複雑なのですが,この値が1に近ければ「正に相関」し,-1に近いと「負に相関」するといいます。0の場合はどちらにも相関していないことになります。身の回りのものは正に相関している方が多いかもしれません。木の幹の太さと高さ,身長と体重,電車の運賃と距離,数学の点数と物理の点数など。これらは片方の数値が大きくなると他方も大きくなる傾向にあります。負に相関するものの例は何があるでしょう?気温に関するものならば冬に売れるものがそれでしょう。例えば鍋料理の回数と気温は負に相関するでしょう。スマホを見ている時間と成績の関係もおそらくそうでしょう。学校の成績の場合,数学と美術は比較的負に相関関係があるようです。
中学や高校の受験勉強は別として,中学生や高校生の学校の成績と親の子供への干渉度合いはいかがでしょうか。成績は数値化できますが,干渉時間のそれは難しそうです。では,子供に「勉強しなさい」とか「宿題(課題)はやってあるの」など,勉強に関する声かけの回数はいかがでしょう。あるいは学校や塾の先生への相談時間は調べることは不可能ではありません。勝手な予想ですがこれらの時間と成績は負の相関関係がありそうです。もちろん親の子に対する気持ちが齟齬しているわけではありませんが。けれどももう少しわが子を引き離してみるのも必要です。成績に大きな問題が見られず,傍目から見て上手くいっている親子は,その距離感を上手に保っているように見えます。そこには正の相関係数も負の相関係数もなく,中間の0に近いように感じます。不(負)もなく可(正)もないのが,親子の相関係数では適正値かもしれません。
19/06/06
明と目
身近にあるA4程度の紙を上から下に向けて裂くように切って見てください。きれいに切れたでしょうか?次に同様の紙を90度回転させてから切ってみてください。今度はどうでしょうか。最初にきれいに切れなかったのなら,90度回転させてからはきれいに切れたことでしょう。逆に,最初きれいに切れたのなら,あとの方はビリビリに破れてはいませんか。これは食パンでも同じことが起こります。紙はパルプの繊維で一方向に紡がれ,食パンは型に生地を入れ,その生地が上に伸びることにより目が出来るのです。
「先見の明」を「先見の目」と勘違いして覚えてしまっている人が居ます。語呂からそう覚えたのか,あるいは先を見通す目があると勘違いしたのかもしれません。先見の明とは「事が起こる前にそれを見抜く見識。将来を見通すことが出来る賢さ」と辞書では定義されています。その意味合いからすると「先見の目」があながち間違った言葉のように感じなくもありません。もちろん慣用句の誤用であることは否定しませんが。「明」には明るいという意味があり,将来を見通す見識に明るいからこその「明」なのでしょう。一方で,先を見通す「目」も大事ではあります。目前のぬかるみばかり気にしていると,遠い未来のことを見逃すことだってあり得るのですから。
「見」という漢字の成り立ちは,人の目という象形から成り立っています。その「見る」には単にモノを見ること以外にも,「調べる,確かめる,試す,経験する」などの意味があります。すなわち先見の明とは,自らの目で物事を見て考え,分からなければ調べ試すことを経験していくことにより,将来を見越せる見識が持てることを言っているのではないでしょうか。そうした目(芽)を育てていくことが出来る環境を整えるのが,教育に携わる者の使命だと思います。
19/05/05
おなかの中で
すべての生物は,その生命の維持を存続させようとする本能があります。いかにして花粉を飛ばし,自らの子孫を残そうかとする樹木。托卵をして他の親に自分の子供を育てさせてしまう鳥。集団で排卵することで天敵からの排除を減少させるウミガメ。生き物はあらゆる手段を持ってしても,自らのDNAを残そうとするのでしょうか?
小説や映画の世界では,DNAを残すために,細胞の中からあたかも生命の母体とする体から離れ,時には細胞レベルの主体が生命をつかさどることにまで話が及ぶことがあります。その行く先は,太古の昔からのDNAを継続して残すために,ヒトを含めたすべての生命体が存在しているのだと極論することさえあります。鳥も牛も蛇もハチも魚も,そしてヒトさえもすべての生命体は,DNAを繋ぐための媒体だという考えがあるようです。もちろん,それを信じることも出来るでしょう。一笑に付することだって出来ます。考えの及ぶ範囲は人によって異なるのは当然だし,それを縛ることなど出来ない注文です。
絵空事のようなそんな空想は,信じる人が思いを寄せればいいと思います。それを否定するつもりもありません。けれども,新しい生命を授かった母親が優しい手をそのおなかに重ねたとき,そこにDNAの意思が存在することなど到底想像できません。新たな生命を携えた体には,大いなる尊厳が宿り,化学式だけで表されるような『物体』にその生命が凌駕されることなどおそらくないでしょう。生命を得た新たな個体は,母親の温かな体内で成長をし,やがて外の世界へと旅立ちます。けれどもヒトの場合,その旅立ちは親の助けが無ければ一日たりとも継続が危ぶまれることでしょう。母親の温かなぬくもりの中,誰もが守られながら育っていくことを忘れてはいけないのです。
19/04/04
#51
メジャーリーグのオープニングゲームが日本で開催されました。随分前にも同様のことがありましたが,それだけ日本人選手がメジャーで活躍していると言えるのでしょう。東京ドームで行われたシアトル・マリナーズとオークランド・アスレチックスの開幕戦は,イチロー選手の引退試合となりました。引退試合はシーズンオフのオープン戦や練習試合で行われるのが通例でしょう。仮に公式戦であったとしても,一打席だけ,投手なら打者一人だけに投げる程度のものです。それが二試合先発出場したのは,やはりイチロー選手の残してきた記録が尋常でなかったことを物語ります。
最後の試合は接戦となり,試合の行方が分からなくなりました。そんな状況下,8回の最終打席のあとに一度守備につき,その後交代するというメジャーの流儀にしたがいました。それがまだ試合の途中であることを忘れさせる光景に,あらためて彼が多くの選手や監督・コーチ,スタッフさらにはファンに愛されていたことが分かりました。アメリカに帰る時の搭乗ゲートを“51”にした航空会社の粋な計らいに,イチロー選手の人柄の良さを感じさせられました。ベンチ前には引退した選手が出迎え,一緒に試合をしてきた選手たちとのやりとりをみると,彼がいかに尊敬されていたかが素直に伝わってきました。そしてこの日がメジャー初登板となった菊池投手の涙が印象的でした。
2001年,野手としては初めてメジャーリーグでプレーすることになったとき,周りの目は今ほど温かくはなかったように記憶しています。アベレージヒッターであるイチロー選手が,パワーヒッターが中心であったメジャーリーグで通用するのか,あの線の細い体ではもたないのではないのか。そんな記事が書かれていたように記憶しています。けれどもイチロー選手の入団会見では,少年のようにユニフォーム姿を記者に向けて回転しながら披露している光景を見て,この人は本当にここへ来たかったのだな,と思いました。イチロー選手の偉業は年月を経ることによりそのすごさがより一層分かるのかもしれません。今確かに言えることは,同じ時代にイチロー選手がいたことにただただ感謝するばかりです。
19/03/03
アナザーストーリー
長所と短所は裏表だと思います。辛抱強いという長所は,裏返せば臨機応変に欠けるとも言えます。誰にでも優しい人は,優柔不断なのかもしれません。モノの捉え方にもポジティブとネガティブがあります。「半分になったコップの水」などが例えによく使われます。天気の中では雨はどちらかというと嫌がられます。「明日は雨か」の「か」には,諦めや残念な感情が含まれるのでしょう。けれども夏場の水不足や農家にとっては恵みの雨になります。その一方で豪雨災害に遭われた人にとっては恨みの雨となるでしょう。ものごとにはさまざまな面を持っています。それをよかれと思う人も居れば,忌み嫌う人が存在することもあります。あるいは同じ人でも,時と場合に依って捉え方が変わるでしょう。人には主観がはたらくからです。
ある人にとってはいい人であっても,別の人には悪人になってしまうこともあります。すべての人に愛されることはおそらく無理な注文でしょう。ひとつの物語の中でヒーローであっても,別の物語では敵役になってしまうのです。自らの物語の中でそれに気づくことは難しいかもしれません。「あなたなんて大嫌い」などと面と向かって言ってくれる人は実際少ないでしょう。どこかで陰口をたたかれるか,無視されるか。お互いの距離を置いて生活圏から離れていくのが自然な流れではないでしょうか。
誰でも自分の人生の中では自分が中心にあり,物語は進んでいきます。その中では自分が主役で,周りの人たちは脇役に徹します。それが当たり前の成り行きなのです。けれども他の人から見た自分は,自分から見たその人と同じく脇役になります。その人から見た自分の役割はどうでしょうか。重要な共演者かもしれません。あるいはその人のある一時期だけ関わる脇役かもしれません。そしてもしかしたら自分が憎まれ役に徹しているかもしれません。人の目を気にするのではなく,自分の役割が第三者から見たストーリーではどうなっているのか。そんな俯瞰の目で自分を見つめてみれば,自分自身の新たな発見があるかもしれません。
19/02/02
弦と弧
JRの前身である国鉄で特急列車が初めて運行されたときのことです。乗車するには乗車券の他に特急料金がかかります。すごく当たり前のことと思うかも知れません。けれども中には「どうして料金が高くなるんだ」と苦言を呈した人も出たようです。彼の言い分はこうです。特急列車は速いので乗っている時間が短くなる。時間が短いのになんでわざわざ別に運賃を払わされるんだ」と。彼にとって電車は,移動手段ではなく乗って楽しむものだったのです。それゆえ速い特急列車は乗車時間が短くなるので,価値の下がるものと感じたのでしょう。判断基準は人それぞれ異なるということです。
いつも仕事が忙しく,休む間も惜しんでいる人を「生き急いでいる」と言われることがあります。仕事に命を賭けている人が世の中には居ます。その一方で,仕事は生活のためにしていると割り切って,自分の趣味に熱心な人も居ます。生き方の問題なので,他人に迷惑でもかけない限り,誰かに批判されるいわれはないでしょう。その人の生き方なのですから。そして同じ人でもその時々で急いだり,のんびり過ごしたりさまざまです。生きていくうちでのテンポは一様ではありません。
一生のダイヤグラムが円で表されているとしたら,今の自分はどのあたりにいるのでしょうか?一生の時間は限られています。時計の文字盤の円周上をゆっくり進もうが,生き急いで文字盤の中をショートカットして進んでしまおうが,その人の寿命は結局のところ変わらないのではないでしょうか。それを運命と呼ぶ人も居ます。ある日突然,自ら直線を引き強制的に一周の時間を終わらせてしまう人も居ます。その一方で,ゆっくりと円周上で歩を運ぶ人も居ます。彼は羨ましいくらいマイペースで進んでいきます。自分の道はやはり自分で選んでいくべきでしょう。特急列車で目的地に行き,そこで思った通りの時間を過ごすことも,ゆっくり船旅で思いに耽りながら時間を過ごすのも自由でありたいものです。
19/01/01
あさりの貝殻
閉店間際のスーパーマーケットに買い物に行くと,あさりが安く売られていることがあります。たいていの場合半額となり,白い発泡ポリスチレンの容器に収められています。生きた貝だけに翌日まで取っておき販売するわけにはいかないのでしょう。あさりは味噌汁にもできるし,酒蒸しやスパゲッティーの具材にもなるので重宝します。半額で買えると思いのほか量が多いので助かります。自宅に持ち帰り,砂抜きをするために容器に塩を入れ台所に放置します。数時間後には食べられてしまうことなど思うはずもなく,あさりは静かに暗い中で砂を吐き出します。
人にはそれぞれ個性があり,性格が異なるものです。一卵性双生児であっても,個性や性格が等しいことはありません。生まれ育ち,環境や経験によってそれぞれの性格は形成され,個性も出てくるのです。唯一無二のものであるのが,それぞれの持つ個性であり性格なのです。その個性も性格も成長とともに変わっていきます。価値観や考え方はその人が見るもの聞くものによって形成されていくからです。もちろんそれ以外の要因もあるでしょう。衝撃的な出来事や,自分の思想や考え方の範疇になかった人との出会い,あるいは書物によって考え方が変わり性格に反映することもあります。
夜の明かりの中で見るあさりの貝殻の模様はさまざまです。その中に同じ模様は見当たりません。きっとどんなにたくさんのあさりを見たとしても二つとして同じ柄の模様はないことでしょう。あさりにもそれぞれの個性があるのです。けれどもあさりと蛤そして蜆の模様を見たとき,私たちはどれがあさりで蛤であるかは見分けられます。あさりの模様の多様性は,それでも一つの種の仲間であることを主張しているのでしょう。ヒトの個性もさまざまですが,同じ種族として生きているその個性をもっと成長させてあげられる方法を考えていけないものでしょうか?視野の狭い杓子定規で測るのではなく,こども達の性格を見抜き個性を伸ばすことができるのは指導者の質に依るものだと思います。良い素材をだめにするのも,上手に活かせるのも料理人次第です。こどもが指導者を選べる機会はそう多くないでしょう。多くは指導者との偶然の出会いに依るものです。その子の個性を伸ばせることができるのは,出会った指導者次第であることを肝に銘じるべきです。