12/12 鳩の巣原理 11/11 アルファベットとro-maji 10/10 ストレス 09/09 ギネスブック 08/08 三すくみ 07/07 時代の趨勢と勉強の意義 06/06 花束 05/05 誇りと感謝を 04/04 絵本 03/03 言葉と内面 02/02 月食 01/01 オノマトペ

18/12/12
鳩の巣原理

n個の部屋にn人より多くの人を割り振る場合,少なくとも1部屋には2人以上の人が入ることになる」。これは鳩の巣原理と呼ばれるものです。例えば2部屋に3人を割り振る場合,(2人と1人)もしくは(1人と2人)あるいは(3人と0人)の3通りが考えられます。最後の3人と0人は現実的にはあり得ない,と思うかもしれませんが,数学的な考え方ではこれも1つの場合の数なのです。もう少し応用的な問題は次の通りです。「A型,B型,O型,AB型の血液型のうち少なくとも1つの血液型が3人以上居ることが確実になるためには,最低でも何人が必要か」。ここで大事なのは「3人以上居ることが確実」なことです。例えば3人だけだとその3人が全員A型かもしれませんが,A型が2人でB型が1人かもしれません。「かもしれない」ではだめです。どの血液型でもいいので,100%確実に3人居なければなりません。ならば12人居れば大丈夫。確かにそうです。けれどもそれは余剰となります。最低限の人数でいいのです。その数は9人です。

中学生から高校生の期間,なにかと成績で評価されてしまうことが多いです。本業が学業なのだからそれも致し方ありません。学校では成績によって序列を作り,成績が下位の生徒には厳しい指導をすることがあります。補習をしたり残したり,ときには保護者を呼んで面談をしたり。生徒のことを思ってそうするのならそれは大切なことです。けれども悲しいかな,決してそう思えない指導も見受けることがあります。下位の生徒だからといってレッテルを貼ってしまっているように感じることがあります。指導に愛情が感じられないのです。どうしたら成績が向上するかなど考えていなく,形式的に補習したり残したり。そんな風景が浮かんでしまいます。

もし成績が下位の生徒が居なくなっても,また次の成績の下位の生徒が必ず出てくるのです。それは鳩の巣原理が証明してくれます。上・中・下の3つしか無い部屋ならば,学校の生徒数を持ってすれば,どの部屋にも必ず何人もの生徒が入り,空の部屋は決してありません。鳩の巣原理は「部屋割り論法」ともいいます。「下」の部屋に追いやられた生徒にも,心をもって接していけば状況が変わるはずです。

18/11/11
アルファベットとro-maji

C・D・F・Gというアルファベットを見て何を思い描くでしょうか?楽器をやっている人ならば,すぐに音階のコードを思うでしょう。日本語を母国語とする私たちでも,アルファベットは日常の中に存在し,その文字によって人それぞれのイメージがあることでしょう。土産物屋で買うときに,贈る相手のイニシャルを意識したことは誰しもあることでしょう。社会科や情報で覚える「TPP・ODA・CPU」などは英語表記の頭文字であることは分かるものの,その正式名をスラスラ言える人はそれほど多くないと思います。TPPは環太平洋パートナーシップ協定,ODAは政府開発援助,CPUは中央演算処理装置ですが,どれも最後まで正確に言えなくても,たとえば環太平洋とか中央演算程度までなら答えられることもあるでしょう。このようにアルファベット表記の3文字よりも,まだ日本語表記の方が自信があるという人の方が多いでしょう。

アルファベットには大文字と小文字があり,それによってイメージが変わってしまうこともあります。たとえば「ETCとetc」。前者は高速道路の料金所にあるもので,正式名称はElectronic Toll Collection Systemです。後者は「エトセトラ」で元々は「et cetera」というラテン語でした。英語の授業でこの語を使うときには前にカンマ,後ろにピリオドを打つことを教わりました。文字のもつイマジネーションが顕著に表れるひとつの例でしょう。数学で使うアルファベットにもいくつかの役割があり,ここでも大文字と小文字で役割分担をしています。aやbは通常定数を表すことがありますが,大文字になると点を表すことになります。三角形ABCといったように,大文字は座標平面上の一点を指すことが多いのです。三角形abcだと違和感を感じます。

日本語の文章の中に突然アルファベットが入ってくると,これは何だ?と思うことでしょう。特に縦書きの文章に突如横書きの英文が混じると,中学高校時に英語で苦しんだ人にとってはちょっと嫌な記憶が蘇るかもしれません。ところがこれが英語ではなくローマ字ならどうでしょうか?tokorogakorega eigodehanaku roumajinaradoudesyouka?いかがですか。ついついきちんと読んでしまわなかったでしょうか。書いてある文がローマ字であると分かると,案外一字一句文字を追ってしまいがちになるものです。それ故,相手にきっちり伝えたいことばはローマ字にするのもひとつの手段です。もっとも多用すると嫌がられるのでほどほどに。

18/10/10
ストレス

最近よく耳にすることは親の,特に母親のこどもに対するストレスの言葉です。自宅での我が子の様子を見ていると,ダラダラしている,寝そべりながらスマホをいじっている,勉強しているかと思ったらいつの間にか寝ている。などです。他人と違い家族は必ず家に帰り一つ屋根の下で過ごします。それ故,嫌でもふだんの生活が見えてしまうのです。親子といえども生活習慣は異なります。親が育った環境が,こどもの今のそれと異なるのは当然でしょう。その環境を作ってきたのは親なのだから,なおさら自分自身にその責任を感じてしまうのかもしれません。子は親の鏡という言葉があります。例えば席を立つときに椅子を仕舞う,借りたものはきちんと返す,時間を守る。こうした躾やマナーは,幼い頃から親がこどもに教えていたか否かで差が出ます。たくさんのこどもたちを見ていると,親のこともそれなりに分かるものです。

こどもに対するストレスは軽減できるものでしょうか。能動的にはそれは難しいと思います。ここでいう能動的とは,親が積極的に解決策を見いだそうとした場合,第三者に相談する,あるいは委ねるということです。中学生や高校生のようにある程度の年齢になり,人格的にも形成が進んだ「一個の人間」になった彼ら彼女らに無理強いをしても逆効果でしょう。何とかしなければと試みても成果が得られなければ,それは自分自身への自己批判となり疲弊へと繋がってしまいます。その結果,育て方が悪かったのではないかとか,どうしてこんな子に育ててしまったのかと内省へと心のベクトルは向いてしまうのです。ではどうすれば良いのでしょうか?方法はいくつかありますが,そのひとつに無関心でいることです。こどもに関わりすぎる親の子の方が,勉強の面で芳しくない傾向にあります。学習スケジュールや学校の宿題や提出物を親が管理する。勇気を持ってこうしたことをやめるのです。取り返しがつかなくなったら,と思う心を抑えることが必要なときもあります。

こどもとの距離の取り方はさまざまです。近すぎず離れすぎず。親子だからこそ話せないこと,知られたくないこともあるでしょう。成長の過渡期で苦しんでいるのはこどもの方かもしれません。けれどもその時期に親が手を差し伸べたならば,それはこどもの成長を妨げたことになります。かわいい子には旅をさせろ,ということばがあります。距離感覚がいい親子もいます。それぞれが個性で相性なのでしょう。ストレスに耐えきれなくなったならば,自分自身に興味を持ったらどうでしょうか。親はこどものためだけの人生ではないのですから。

18/09/09
ギネスブック

さまざまな記録に関するものとしてはギネスブックが有名です。ギネスブックは彼のアイルランドのビール会社代表取締役が「世界一早く飛ぶことが出来る鳥」に興味を持ったことが始まりであることもよく知られています。それほど興味が無くてもさまざまな記録を見ると,こんな記録があったんだ,とついつい見てしまうことでしょう。スポーツでの記録が多数残されています。日本人では王貞治氏のホームラン数や,イチロー選手の年間最多安打。体操の内村航平選手は世界体操選手権とオリンピックでの最多優勝回数を記録しています。多くの人々に感動を与えたこれらの記憶は永遠に賞賛されることでしょう。スポーツ以外でも芸能に関するものとして,テレビの長寿番組の司会や,生涯800以上もの役を演じた歌舞伎役者・十七代目中村勘三郎の記録などがあります。

スポーツや芸能以外で一般の人がギネスブックに載ることも出来ます。個人ではなかなか難しいでしょうが団体でなら可能です。たとえば複数人の小学生が縄跳びを一秒間で飛ぶ回数や,3000メートルを超える世界一長い麺を作ったのは3人の中国人調理師でした。スペインでは9995人の人が同時に帽子を投げ上げた記録が残っています。なぜ10000人ではないの?と思う人は,このギネス記録に興味を持った証拠です。ギネスで認定されない記録もあります。たとえばエベレストの頂上で卓球をやった,などがそうです。物理的に超えることが出来ないことは認定されないのです。今後も破られる可能性があることに記録の存在意義があると言うのでしょう。「記録は破られるためにある」と言われます。この記録だけは絶対に誰にも破ることは出来ないだろうと思われている記録でも,いつか誰かがその記録を破る可能性がある限り記録は生き続けるのです。

記録は意識して達成できるものと,偶然だったり本人が知らぬ間に達成されている場合があります。意識していなくて,それがギネス認定の記録になるのならば栄誉なことでしょう。けれどもほとんどの記録はそれを意識して達成されるものです。ギネスまでとは言いませんが,自分なりに目標設定をしてそれに向かって突き進むのならば,生きがいのひとつになると思います。始めることに遅すぎることはないのです。スタートラインを切らなければ何も始まらないのだから。

18/08/08
三すくみ

物事の勝敗を決める身近な方法としてじゃんけんがあります。誰でもルールは知っていて,比較的早く勝負がつきます。小さなこどもでもその仕組みは知っているので,年齢もほとんど問いません。また,ほとんどの場合年齢や性別などに勝敗が関係しないでしょう。グーはチョキに勝ちチョキはパーに勝つ。パーはグーに勝つ。この何とも単純なルールですが,いわゆる三すくみの最たるもののひとつです。三すくみはじゃんけんのグーチョキパーのように,三者の中で得意とする相手と,苦手とする相手を持ち合わせた状態をいいます。有名どころではヘビとカエルとナメクジがあります。ヘビはカエルを食べます。カエルも同様にナメクジをペロリと食べます。けれどもヘビはナメクジを食べることが出来ません。ナメクジの体の粘液でヘビを溶かしてしまうからです。もちろんこれは事実ではなく,一種の言い伝えのようですが。

さて,人の世にも似たような状況があります。たとえば先生と生徒と親。先生は生徒に指導する立場なので生徒には強くものが言えます。こどもは親に反発をして言うことを聞かなくなる時期がやって来ます。そんな状況を何とかして欲しいと,先生に強い要望をする親。おっと,ちょっと角が立ってしまったでしょうか。もちろんほんの一例で,三すくみが成り立たない場合がほとんどでしょう。この三すくみの場合,悩みが深く辛いのが親ではないでしょうか。幼い頃は自分を頼っていたこどもが,年齢と共に何を考えているのか分からなくなっていく。直接こどもに言えないから先生を通して言って貰う。やむを得ずこどもの状況を知る手立てに先生を介する方法を取るのかも知れません。でも,それを責めることはしてはいけません。この傾向は異性間の親子で起こりがちのようです。すなわち父親と娘,母親と息子の組合わせです。親がこどもの理解に苦しむことは,はるか昔から繰り返されてきたことでしょう。こどもに遠慮することなどない,と言う意見もあるでしょう。けれども親子関係は微妙なもので他人には理解できないこともあります。親子だからこそ出来てしまった溝,関係を復旧させるのが難しいケースもあります。一過性で済むのならばその時期をじっと我慢して過ごすことも考えられます。多くの問題がそうであるように,雲の間がスッと晴れるように解決することは希です。悲しいかな,ドラマのように劇的な変化を望めないのが現実です。そういうときはじっと待つのも方法でしょう。時が緩やかに解決してくれることを待つのです。

ゾウと人とアリ。ゾウは人を踏み潰し,人はアリを踏み潰してしまう。そしてアリはゾウを刺し殺すという三すくみです。けれども現実的にゾウは人を踏み潰すことはないでしょう。心ない人間以外はアリを踏み潰しません。アリもゾウをそうたやすく攻撃しないでしょう。じゃんけん以外の三すくみにはどこか隙があり,だからこそそこに救いがあるのだと思います。こどもにはこどもの理由があることを理解してあげられれば,三すくみの悪い状態の和が崩れることは決して難しい注文ではないのです。

18/07/07
時代の趨勢と勉強の意義

今年になってから新聞やテレビのニュースで,古くからやっている店の閉店の報道をいくつも見ました。老舗のデパートや,一般の書店では扱っていないような書籍を取り揃えている店などの閉店です。ショッピングモールが出来て客足が減少したり,震災の影響で営業時間の変更を余儀なくされたなど,外的な要因もあったようです。時代の役割を果たし終えた,などと言われることもありますが,中にはそれを乗り越え新たな道を切り開く方法もあります。けれども,それが出来ないこともあるのでしょう。

閉店のニュースの中に多く含まれるキーワードに,ネット販売に押されてしまった,というのがあります。街の書店が減少しているのは,ネット通販で本を買えるようになったことが大きいでしょう。注文すれば自宅や職場,あるいは近所のコンビニエンスストアまで配達してくれるのだから便利です。早ければ2日くらいで届きます。書店に出向き注文しても一週間くらい掛かることがふつうです。時代の趨勢に乗れないと,個人商店はその行き場を無くしてしまうことを余儀なくされてしまいます。

かつて家電量販店が台頭した頃には,街の電気屋は大きな打撃を受けました。品揃えが豊富で安くポイントも付く。買い物客は量販店に足を向けるようになりました。それが今の時代は,ネット販売が幅を利かせるようになりました。値段が安く,品揃えの点ではどんな量販店でも敵わないほどだからです。重たい家電でもネットで手続きすれば自宅まで配達してくれます。かつての家電量販店と街の電気屋との構図に似たものを感じます。そして郊外にあった量販店の撤廃を目にするようになりました。今は物流の世界を席巻しているネット通販も,いつかは他者に追いやられるのでしょうか?先見の明が必要だと言われます。それを見極めるために,生徒・学生諸君には今やるべきことにきちんと臨んで欲しいと思うばかりです。勉強の大切さのひとつには,その学科の学習内容以外にもあります。今するべきことが出来ないのなら,将来も同じ状況がやって来るかもしれないと知ることも大切なのです。学習とは教科書・問題集だけの学びばかりでは無いのです。

18/06/06
花束

人に花を贈るときにはさまざまなシチュエーションがあります。お祝いのときもあれば退職のときに渡す花束もあります。お見舞いの花は派手でない方が良いでしょう。鉢植えの花は根があるために「寝付く」とされ嫌がられます。言葉尻を捕らえてしまえば,蘭の花は「治らん」となり,かすみ草は命が「かすみそう」は考えすぎでしょうか。事故や事件で亡くなった人が居ると,そこにたくさんの花束が添えられている映像を何度も目にしたことがあります。お悔やみの花は誰のためにあるのでしょうか?故人に直接見てもらえない花には,故人を励ましたり喜ばせる力はもうすでにそこにありません。残された家族にとって,彼の人を思ってくれる人が居たことを認識することは出来ますが,慰めになるのか。きっとその時々の状況に依るのでしょう。

昔から多くの唄に花束は登場します。ふと思い浮かべるだけでも,誰しもきっといくつかのメロディーが記憶に蘇ることでしょう。唄の中では明るい場面で渡すことが多いように想います。小説のタイトルにも多数登場します。小説の中での花束の扱いは,唄のそれと比べると少し情景が異なるようです。もちろん恋人に捧げる花束もあるでしょうが,花束がデフォルメされ,物語の象徴として扱われることがあります。唄ほどではありませんが,小説での花束のこの扱いに同意できる人もいることと想います

ここ数年で何度か花束を渡したり贈ったりしました。嬉しい花束,悲しい花束,寂しい花束,感謝の花束。さまざまです。花束を贈るとき,やはりさまざまな情景がそこにはあります。けれども共通していることは,贈るすべての人が紛れもなく自分の人生の中にいて,それがこれからも続くのだということです。二度と会えなくなってしまった人もいるけれども,忘れないでいくことがその人とのこれからの関わり方だと考えたいのです。そして今とこれからも同じ時代同じ空の下でみんな過ごしているんだと思いながら今を生きていくのでしょう。次に贈る花束は,嬉しい花束でありますように。

18/05/05
誇りと感謝を

苗字の成り立ちの多くは地名に由来しています。自然が豊かな日本の地形は,苗字を定めることに強く関わっています。地形とはまた別に,たとえば手柄を立てた者が殿様から苗字を頂いたということもあったようです。あるいは職業に関することから決まった祖先もいるでしょう。いずれにしても,その苗字が決まるまでにはそれだけの根拠があるはずです。歴史の中では戦に敗れ,身を守るために苗字を変えたという話もあります。その時に,元の苗字の名残をどこかに残してきた人々もいました。どんな苗字にも由来があり歴史を刻み今に至っているのです。平凡な名前だから嫌だ,とか,憧れる苗字がある。など苗字にこだわる民族なのかも知れません。われわれ日本人は。

名前はどうでしょう。ほとんどの場合親によって名付けられることでしょう。もちろん親類や信頼できる人に頼むこともあるでしょう。いずれにしても名前は授かるものです。わが子の成長を願い健やかに育っていくことを祈るのが普通でしょう。男の子ならば立身出世とまで行かなくても,立派な大人になって欲しいと思うものです。そんな思いが詰まった親から子への贈り物が名前です。

こどもの残虐性でしょうか,こうした苗字や名前を揶揄することを目にします。ここで言うこどもとは,幼稚園児くらいから小学生,さらには中学生や高校生も含まれます。幼い頃の苗字や名前に対する揶揄は,まだ語彙力が不足するいわゆる幼児性のものなので,これは仕方ない部分もあります。もう少し年齢が進んだ中学生が,苗字名前で他人を貶める言葉は悲しいです。同級生へのその言葉は,彼の祖先や名付け親の両親あるいは親族までも侮蔑しているのです。悲しい行為で,その言葉を発する君のどこにも正義は無い。言われた本人はどんな思いなのか?聞き流すだけで済ましていないだろうか。もしそうならば,自分の苗字に誇りを持とう。自分の名前に感謝の気持ちを表してみよう。そしてもっと怒っていい。

18/04/04
絵本

内科や耳鼻咽喉科あるいは歯医者の待合室では絵本をよく見かけます。子どもが受診しに来たり,あるいは親に付いてくることが多いようで,退屈してしまう子どものために置いてあるのでしょう。誰もがスマートホンを持つ時代になり,子どもでも簡単に操作ができるのに,やはりこうした場所では絵本がまだまだ主役の座を譲らないのです。もちろん場所柄スマートホンを使用するのがまずいことも察することができます。医療の場で使用を認めてしまう訳にはいかないでしょう。待合室のソファーに,あるいは床に直接座り込んで絵本をじっと見つめる光景を見かけることがあります。順番が来ても絵本からなかなか離れようとせずに,そのまま診察室まで持ち込んでしまう姿を見たことがあります。

誰しも幼い頃には絵本の世界に引き込まれたのではないでしょうか?まだ多くの文字が読めない年頃には,絵で表現された世界に興味が湧くことでしょう。お母さんが感情を込めて読んであげれば,自分が絵本の世界の主人公にだってなれるかもしれません。昭和の時代には紙芝居があり,紙芝居の演じ手がその役ごとに語り口を変えるあたりは落語に近いものがありました。動画と違い絵本や紙芝居はそこに描かれている一枚の絵だけで物語が進みます。次の絵に続く『行間』は子どもに読める文字で,あるいは演じ手によって埋められるのです。こども達の想像の世界で物語は作られ,次の一枚がどんな展開かをワクワクしながら待っているのかもしれません。

今どきの絵本はどういったものが人気があるか調べました。やはり昔ながらの動物ものの絵本は定番のようです。身近な猫やウサギあるいは絵本では欠かせないオオカミが主役の絵本もありました。他には啓蒙的な絵本もありました。しりとりをすることで子どもの語彙力を高める「しりとりあそびえほん」。相手のことを思いやる気持ちを描いた「そらまめくんのベッド」。魚や肉を食べることは命を頂くことを教えてくれる「いのちをいただく」などは,年齢がもっと上のこども達,あるいは大人の読書にも十分耐え得る説得力がある絵本のようです。子どもに絵本を買い与えるのは主に母親でしょう。その選び方次第で子どもの成長に関与するのなら,自ら面白い,感動できる絵本を選んで上げるのがいいのではないでしょうか。

18/03/03
言葉と内面

テレビのBS放送や特定の地域だけで放映する番組のプログラムの中に,昔キー局で放映されたドラマやアニメの再放送をしていることがあります。昭和の番組はその時代を過ごした人にとっては懐かしく見ることが出来るでしょう。今と比べると,画像は悪く音声が途切れて聞き取りにくいこともありますが,そこを差し引いても十分に楽しめます。設定が単純であったり,簡単にストーリーが読めてしまうなど,今のドラマに目が肥えた人にはどう感じるかは個人差があるかも知れませんが,純粋に楽しめればいいと思います。

昔の番組は,言葉や表現が今よりも過激だったり,露骨に貶めるような台詞,今の時代では放送できないようないわゆる『放送禁止用語』が飛び出すこともあります。そうした言葉を聞くたびに,一瞬ドキッとしたりすることもあります。かなり汚い言葉を発する役者の姿は,美しく見えることはありません。番組のはじめには,そのことを警告するテロップが表示されます。世間一般に対する影響力を考慮してか,こうした言葉をテレビ業界は控えるようになりました。さて,今の時代はどうでしょうか?若者のテレビ離れが生じている一方,生活の中心にネットの世界があります。その中では時に他人を汚い言葉で罵り中傷し,隠語のような言葉で貶めるようなことが見受けられます。動画投稿サイトでは,狂気の沙汰としか思えない愚行を面白がったり煽ったりすることもあります。影響を受けるのはやはりこども達です。汚いことばを並べ,楽屋落ちのような閉塞感的な笑い。他者を受け入れようとしない姿はやはり醜いと思います。

かつて韓国から来たプロ野球選手は,きれいな日本語を覚えるためにさだまさしの歌を聴いて覚えたと言っていました。彼の歌は確かにきれいな言葉で書かれることが多いようです。やさしいメロディーに思いの丈を載せるかと思えば,激しい曲調で諭すような詞もあります。きれいな言葉を学ぼうという努力を日本人でない人から教わることもあるのです。真似をしなさい,とまでは言いません。けれども自分の発する言葉は,自分の容姿を表す鑑であることも知って欲しいのです。外見ばかりにとらわれずに,内面も見つめ直すことが出来れば,人は美しくなれるのだと知ってください。

18/02/02
月食

今年一月の最後の日から二月の最初の日にかけて皆既月食が観測されました。スーパー・ブルー・ブラッドムーンという形容詞が三つも付く天体ショーは,天候不順による観測が危ぶまれましたが,国内のほとんどの地点で観測できました。興味のある多くの人が寒さの厳しい中,冬の空を見上げたことでしょう。月食や日食,彗星群などが観測できる時期は科学的に計算され,いつどこで見られるかが分かります。月や太陽の軌道の方程式や,彗星の周期などかなりの精度で計算されます。12年ほど前,JAXAの小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワにたどり着き,観測しサンプルを持ち帰ったことは記憶に新しいと思います。3億㎞という想像するのが難しい距離を,秒速30kmという速度で小惑星イトカワを捉えたのですから,その計算力の正確さにはただただ驚くばかりです。

月食や日食は単なる天体ショーだけではありません。物理学における理論の検証の場にもなり得るのです。1919年5月29日にアフリカで観測された皆既日食の継続時間は7分近くで,観測された日食としてはかなり長い方です。この皆既日食によって,アルバート・アインシュタインの「一般相対性理論」が正しいことが実証されました。太陽のような大きな天体には『重力レンズ』というものが存在します。太陽の重力により,太陽があたかもレンズの役割をするというのです。はるか遠い恒星の光が太陽の近くを通るとき,重力レンズによってその光がゆがめられるはずだと推測されました。けれども太陽の光が強すぎるので観測不能だったのです。それを解消する助けに日食があったのです。ゆがめられた光の観測が認められたとき,アインシュタインは何を思ったことでしょう。

地球から見た月の姿が変わっていくのを見て,太古の昔の人びとは時間の流れを知りました。『月日がたつ』という言葉があります。時間の流れを月と日=太陽で表現している日本語は,やはり風流であり誇れる言語だと思います。月食や日食という現象に人びとは祈りを捧げ,ときには元凶を感じ取ったのでしょう。仕組みを知らないと,月や太陽が欠けていく様子は恐怖にさえ感じたかも知れません。その影が自分たちの住む地球であることを悟った人は如何ほど居たことでしょう。けれども月と太陽の位置や姿を楽しむ賢人や市井の人も居ました。江戸時代の画家であり俳人であった与謝蕪村の俳句に「菜の花や月は東に日は西に」があります。春の日の穏やかな風景が目に浮かぶ一句です。この句だけでこの俳句がどの時期に詠まれ,月の形が推測できます。私たちに身近な月と太陽。科学的な見地で見るもよし,人びとの生活に関与しているのだと思うのもよしでしょう。

18/01/01
オノマトペ

石川啄木の「古池や蛙飛びこむ水の音」という俳句があります。さて,蛙が池に飛び込んだときどんな音がしたでしょうか?「ポチャン」と思いませんでしたか。子猫の毛は「フワフワ」しているでしょう。激しい雨は「ザーザー」と降り,新入生の制服は「ピカピカ」に光ってます。こうしたモノや人が発する音を『オノマトペ』と言います。オノマトペはフランス語で,日本語としては『擬声語』と訳されています。擬声語には擬音語と擬態語があります。擬音語はモノが発する音を真似て表現したモノです。「ポチャン」や「ザーザー」がそれです。擬態語は状態やその時々の心情を音によって表したものです。「フワフワ」や「ピカピカ」などです。オノマトペは文章の中で登場しますが,話し言葉,すなわち会話の中では欠かせないものでしょう。もしオノマトペを一切使わずに会話をしようとすれば,かなり窮屈なものとなるでしょう。たとえば「今日の試験難しすぎたよな。もうヘトヘトだよ。試験問題ビリビリに破ってやろうか。こんなときはパーッとカラオケにでも行こう」といった会話からオノマトペを省いたらどうでしょうか?「今日の試験難しすぎたよな。もうくたびれたよ。試験問題をちぎってやろうか。こんなときには憂さ晴らしにカラオケにでも行こう」こんな感じでしょうか。やはり無理があるようですし,オノマトペを使った方が気持ちが伝わりやすいでしょう。

手塚治虫は漫画の中で音のない場面で「シーン」と表現しました。これも一種のオノマトペかも知れません。音のない表現を漫画に取り入れた彼は,表現の天才でもあったのでしょう。オノマトペではありませんが,彼の漫画の中にはヒョウタンツギなる謎の生物が時々登場しては,物語のアクセントになっています。さて,犬の鳴き声は「ワンワン」,猫は「ニャー」ですが,これも国によって異なるのはよく知られたことです。有名なところではニワトリでしょう。日本では「コケコッコー」ですが,アメリカでは「コッカドゥードゥルドゥー」,イタリアでは「ココリコ」とどうしてこうも聞こえ方が違うのかと思うほどです。かく言う日本も昔は「東天紅」だったので,言語と時代によって捉え方が違うのでしょう。

似たオノマトペの相違を考えるのも面白いでしょう。前述の「ヘトヘト」と似たオノマトペに「くたくた」があります。これらは擬態語です。心情の違いはどうでしょうか。終電が無くなり1時間ほど歩いて帰宅したときには「くたくた」が似合ってます。試験が難しかったときに「くたくた」よりも「ヘトヘト」の方がしっくりします。精神的なものと肉体的な違いで使い分けているのでしょう。「ペラペラ」は「英語がペラペラに喋れる」といった擬声語もあれば「長年着たシャツがペラペラだよ」は擬態語です。こうした違いを考えることや,正式な文書では使いにくいときの言い換えなど,言葉は奥が深いと思います。すぐそばにある本にはオノマトペがどのくらいあるか,ちょっと覗き込んでみてはいかがでしょう。